舛添都知事辞任したこのタイミングこそが感情論を叩く最大の好機

舛添都知事、粘りに粘るもついに辞任ですか。参院選への影響を考えると、都議会与党である自民公明も、これ以上引っ張っておけない、ということでしょう。全体としてやむを得ない判断といえます。

とはいえ個人的な意見として、都知事選をもう一度行い人を入れ替えるわけで、それによって発生する選挙費用含めデメリットは相応に大きいといえます。舛添氏のやったことが、果たしてそれに値する巨悪かというと、甚だ疑問ではあります。まだまだ叩けば都知事と周辺にはホコリがたくさんあるのではないでしょうか。猪瀬元都知事も、どうやら以前からそういうのはあったことをほのめかしています。

猪瀬氏スイート使用「それはいいのよ」

現在すでにサンドバック状態の氏ではありますが、いっそ乾いた雑巾までなっていただいて、更に絞られる役に回っていただければよかったのに、と思わないでもありません。変えようのない参院選ではありますが、選挙のタイミングが良くないな、と感じます。

え?今まで黙ってて、辞任が決まった頃言うなよ?とんでもない、これを言い始めるのは今が最大の好機なのですよ。

都知事問題は、実際多数の「不適切」があったとはいえ、これといった違法行為が明瞭にあったわけではありません。実際、ここまでの話で有罪になるかといわれると、微妙なところでしょう。その状態がここまで大きくなったのは、ひとえに市民感情の悪化であり、その火に油を注いだマスメディアの枠割が大きかったと言えましょう。

炎のように広がった感情の勢いを止めるのは、常に難しい。これは一つの真理です。対するには、感情が最高潮に達する瞬間を見極め、それを持って反攻に移るのが一番いいのです。この場合はつまり、辞任の瞬間であります。

BLOGOSを見ると、以下の記事が見事にワンツーになってます。内容が論評に値するかはともかくとしても、時宜を得ていると評価できます。

舛添都知事をギロチンにかけよと熱狂する民衆

セコい都知事を攻撃したのは、もっとセコい高齢者だったんじゃないか。

その最高潮に至るまでは、耐えておけばいいのでしょうか?とんでもありません、むしろ火に油を注ぐのを手伝うぐらいがちょうどいいのです。むしろ最高潮までの道を早め、その中に過激な行動をいくつも散りばめさせましょう。反攻に移った瞬間、それらは良い攻撃目標に早変わりします。桝添を倒し、返す刀でアンチ舛添を叩き切る。理想的な展開です。

なのでしばらく、辞任に追い込んだ世論とマスコミに対してはしばらく「衆愚的だ」などという意見が非常に目立って見られることでしょう。が、それ以前にどのような意見を配信していたかきっちりチェックしましょう。見事なタイミングで意見を変えている人がいたら、それは貴方を貶め、かつ攻撃しようとしていた敵なのです。

というわけで、都知事辞任劇をネタにちょっとした戦略論についてかいてみました。昔の人はこういう時にいい言葉を残しています。

「勝って兜の緒を締めよ」

勝った瞬間こそ、一番危険なのです。

しかし戦略といえば、一連の自分で油を注ぐかのごときまずい対応を見ていると正直なところ「マスゴミが叩いたというより自爆した。弁護不能」「危機対応がズダボロ、知事の器ではない。変えたほうがいい」と考えたくなったのも事実です。まあ起こってしまったものは覆水盆に返らずですから、次の都知事を選ぶ際には同じ轍を踏むことのないよう、しっかり考えて投票したいものです。

WeeChat+αで常時IRC接続環境を作ってみた

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

今までのIRC環境

今年の年明けに挑戦した作業の一つにに、IRC環境の統一、というのがあります。昔からIRCをコミュニケーションに多用しており、一時期は

BitlBee で AIM や GTalk や Twitter を IRC にまとめる

などを参考にtwitterやIMまでbitlbeeを使ってIRCに統一していました。

これはこれで非常に便利なのですが、各所で利用していると、下の図のように多様な環境に多数のクライアントをインストールすることになり、操作感はバラバラだわ、設定がごみごみするわ、ログが散逸したりやらであちこちでの管理が大変であり、どうしても統一した環境が必要であるかなと思っていました。

irc-connection

これについては、従前からTiarra,madoka,nadokaなどに代表されるIRC proxyを導入することで接続の管理を一本にまとめる、という運用をしていました。ちょうど個人で使えるサーバーはありますので、こういうときには十分使い物になります。

irc-connection2

確かに、これを導入することで複数のサーバーを管理することがなくなり、チャンネルなどの管理は簡単になり、また常時接続環境も用意することが出来、利便性も非常に向上しました。しかしながら引き続きクライアント側は簡単になったとはいえ複数種類に渡り、キーワード設定などの管理は引き続きバラバラに管理しなければならず、未読管理などもばらばらになります。もっとこう、クライアントも可能なかぎり統一したり、最近のはやりでWeb basedなUIとかにできればいいのに、とか思ってしまいます。

この対策として、IRC Proxyは引き続き利用しながら、同時に個人サーバーにCUIのIRC Clientを導入してssh接続で利用していました。これなら、ssh clientさえあればいつでも同じクライアントで接続ができますし、tmuxやGNU screenなどを使えばセッションの維持も可能です。もっとも、モバイル端末でsshを使うのは大変に骨が折れるのでほぼ不可能だし、通知なども発生しませんので、あまり便利とは言いがたい状況ではありました。

WeeChatで実現する統一環境

今回、CUIのIRC ClientとしてWeeChatを利用していましたが、WeeChatには単なるCUI Clientであるだけではなく、便利な機能がたくさんあります。

  • ログ取り、URLの圧縮などの便利機能をスクリプトで拡張できる
  • IRC Proxyとしても利用でき、他のクライアントを受け入れられる。
  • IRC protocol以外に専用プロトコルがあり、こちらは未読などを含めて全て管理可能
  • 専用プロトコルのクライアントには、Android用やHTML5ベースのものまである。

これらの機能を使えば、既存のIRC proxyが無くとも、全て統一管理した環境が得られることになります。

irc-connection3

今回、実際にweechatの設定を完了し、IRC proxyを廃止できましたので、備忘録代わりに記録しておこうと思います。

Weechatの設定

まずWeeChatですが、今回はdebian上に実現しているので、特に苦労もなくapt-getでインストール可能です。

$ apt-get install weechat

同様にMacでもhomebrewで一発でインストールできますし、Windows であれば残念ながらNative版こそありませんが、CygwinのNet Installerからインストールが可能です。インストールが完了したらコマンドラインからweechatを起動します。

weechat

接続などは、実行した後weechatのコマンドで設定が可能です。クイックスタートガイドを参考にサーバ登録、接続、チャンネルへのJOINが可能かと思います。例えば、IRCNet に接続して#testchannelに接続するためには、以下のコマンドで行えます。

/server add ircnet irc.ircnet.ne.jp
/connect ircnet
/join #testchannel

 

日本人向けの設定

とはいえ、このまま実行するとIRCNetなどのiso-2022-jpのサーバでは、日本語は正しく表示されません。これは、charsetの指定が必要です。日本人ならiso-2022-jpがデフォルトでしょうから、そのように設定し、freenodeなどでutf-8の場合は、そちらのみutf-8にしましょう。ここではデフォルトはiso-2022-jp、ircnetも同様、freenodeだけutf-8、とするような設定例を示します。

なお、コマンドラインからの設定を設定ファイルに保存するためには、/saveコマンドを使います。せずに終了すると綺麗に消えますので忘れずに!

/set charset.default.decode "iso-2022-jp-3" 
/set charset.decode.irc.ircnet "iso-2022-jp-3"
/set charset.encode.irc.ircnet "iso-2022-jp-3"
/set charset.decode.irc.freenode utf-8
/set charset.encode.irc.freenode utf-8
/save

(1/13追記: 当初iso-2022-jpとすることでfull width tildeなどで文字化けが起こっていましたが、iso-2022-jp-3とすることで回避できることがわかりました。ただし、libiconvが–enable-extra-encoding付きでコンパイルされていることが条件です)

しかし、ここまで設定しても、ircnetで日本語名のチャンネルに入れません。freenodeなどではまず推奨されないnon-asciiなチャンネル名を利用しているためです。”Why GARAPAGOS Japanese People!”と叫びたくなりますが、怒っても始まりません。

理由としてはデフォルトでチャネル名などをエンコードせずそのままutf-8で解釈してしまうためですので、エンコードしてもらうように設定します。

/set irc.network.channel_encode on
/save

ここまで設定すれば、あとは設定を駆使すればCUIのIRCクライアントとして普通に使うことができるようになります。前述のとおり、tmuxやscreen を使えば、常時接続環境も整います。

IRC Proxyの代替向けの設定

IRC Proxyとして使うなら絶対欠かせない自動接続などの設定は、/setコマンドを使います。例えば起動後自動でircnetに接続し、#testchannelにJOINするような設定は以下です。

/set irc.server.ircnet.autoconnect on
/set irc.server.ircnet.autojoin "#testchannel"
/save

繰り返しますが、/saveは忘れずに!同様の設定は~/.weechat/以下にある*.confファイルを(起動していない時に)直接編集することでも可能です。

ログ取りには/loggerコマンドを使います。チャンネルごとに設定するばあい。チャンネルのバッファに入り、以下を実行します。

/logger set 1

/setコマンドで全チャンネルを記録することも可能です。以下では、全チャンネルのメッセージログを取ります。

/set logger.level.irc 1

それ以外の便利機能は、概ねスクリプトに公開されています。これらは/scriptコマンドからインストールでき、/setコマンドなどで設定することが出来ます。

WeeChat リモートインタフェースの利用

次に、weechatのrelay機能を設定し、モバイルやブラウザから利用可能にできるようにしましょう。weechatのrelay 機能はIRCプロトコルと専用プロトコルの両方が利用可能ですが、今回は未読管理などを共有したいので、後者を使います。

専用クライアントサーバの起動方法ですが、/relayコマンドを使えば簡単に実行できます。”your-secret-password”の部分は、当然皆さんが書き換えてください。

/relay add weechat 9000
/set relay.network.password "your-secret-password"

これで、weechatが(tmuxなどでセッションが接続されて無くても)起動している間は、上記のport 9000で専用のリモートインターフェースからの接続が可能です。

今のところのものは、ダウンロードページで紹介されています。AndroidはGoogle Playで公開されています。iOS版がありませんが、HTML5版のGlowing Bearは、iOSに対応しています。

Glowing Bearの例で言うと、先ほどの設定を元にサーバ名、ポート番号、パスワードを設定すれば接続できます。

glowingbear

接続すると、weechatで使っていたものとそのままの状態がHTML5で復元されます。同時に利用することすら可能です。

なお、weechatの専用プロトコルはSSLを設定することも可能です。設定手順も公開されていますし、StartSSLを使って無料で署名したものも作れますので、暗号化したい人は参考にしてみてください。

デーモン化と自動起動の設定(手抜き版)

今回weechatをrelay機能で中継サーバとして使うようにしても、tmuxなどでセッションを開けっ放しにしておけば、常時利用できる形になるので特に問題はありません。各種デーモン化の方法はあるかと思いますが、今回はcronとtmux のセッション生成を使って、非常に手抜きしたデーモン化を実現しています。以下の1行のcrontab設定で、起動後3分以内に自動的にweechatを含むセッションが立ち上がり、(Debianの場合)再起動した旨のメールが飛びます。

0-59/3 * * * * /usr/bin/tmux list-windows 2>&1 | grep Chat >/dev/null || ( /usr/bin/tmux new-session -d weechat && echo tmux session regenerated)

 

最後に

これで、weechatを中央に据え、常時快適に接続できる環境を整えることが出来ました。クライアントにもいろいろ種類がありますし、モバイルでも使えるということで、非常に快適になったと思っています。参考になれば幸いです。

サイバー戦争黎明期の今こそむしろ徴兵制の好機

最近は徴兵制のお話が流行りなようです。野党の「戦争法案」うんぬんの話が引き金なのですが、どちらかと言うとああいう強引な論理には分がないように思えます。
安保法制賛成派の多くは、徴兵の非合理性を主張しています。例えば

■徴兵されないか不安なみなさんへ。

戦闘も同じです。
志願をし、採用試験に合格し、何年も勉強して資格取ったり訓練やったりして、そしてさらに日々訓練を積んでいるプロにしかできないことです。
やる気のないド素人を戦場に連れてったら、なんの任務も遂行できません

陸自、空自、海自それぞれみても、全くそのとおりだと思います。日本は膨大な近代兵器を擁しており、それが使える人材でもなければ単なる穀潰し、いないほうがましです。
ただ、これは常に真の命題ではない、というのは肝に銘じておくべきです。歴史的には徴募兵中心のほうが強い時代、少数精鋭のほうが強い時代は何度も繰り返されています。
鉄器、騎兵、騎士、銃器うんぬん。現代は、塹壕戦などの「数の時代」が終わり、「質の時代」が長らく続いていますし、それが消える気配もありません。

ただもう一つ、徴兵が有効なケースがあります。「質の時代」に置いても、軍より民間人のほうが質が高い場合です。特に黎明期のテクノロジーにおいては、軍のような硬直化しやすい組織より、むしろ外部の方が熱心であったりもします。そんなテクノロジーがあるかと言われたら、無論あるのです。

インターネット。

昨今はサイバーテロが話題になっています。ネットはほぼ事実上インフラ化した中で、サイバー攻撃やそれに対する防御は喫緊の課題です。しかし、それに対応できる人材は極めて少ないのが実情です。サイバー防衛隊の設立はたかだか2年前、十分な人材とノウハウがたまっているかと言われると正直良くわからない部分があります。日本は北朝鮮からのサイバー攻撃に対抗できる? 対岸の火事ではない「ソニー事件」では、高々90人体制でスタートしたが備えが不十分だと指摘しています。

要するに何が言いたいかというと、サイバー戦争界隈なら「日々訓練を積んだプロ」が民間にも多数いる、という話です。L.starも相応にこの業界では研鑽を積んだ身ですから、彼らに「ド素人」呼ばわりされる言われもありません。こういう人材を調達すれば、一気にサイバー防衛隊を拡充することが出来ます!そしてこういった人材は通常の方法で雇うのは多忙だったり、高価だったり、海外に出てたり、「市ヶ谷の連中なんかとは二度と付き合わん」と言ってたりで難しかったりもするわけです。そこで赤紙を使えば、あら不思議!雇いたい放題です。

同様のことはシステム開発やデータ解析の分野にも言えるでしょう。ソフトウェアの重要性が高まる中、制御用の膨大なコードを書いたり、レーダーや衛星写真などの大量情報を処理する必要に迫られていることでしょう。こういった人材も、自衛隊の中だけで育成するのは大変難しいものです。しかし、赤紙を使えば簡単にデスマ拠点を作ることが出来ます!

いかがでしょう。むしろサイバー戦争のような最新事情こそ、むしろ徴兵制の必要性を示しているのではないでしょうか。

無論、これは野党の馬鹿徴兵騒ぎを「大量徴募は不合理だから徴兵はあり得ない」という安直に否定したことに対する、ささやかな思考実験的反証にすぎません。野党の言う「徴兵反対」を何ら肯定していません。徴兵対象が少なすぎるし、そもそもサイバー防衛隊の人は実際には戦地にはいかないのでは?と思います。
また実際に有効だからやると言い出したところで、別に無理に憲法解釈を捻じ曲げなくとも、会社収用したり、案件を継続的に出して実質抱え込んだり、回避策は多数あります。そもそも非人道的か?と言われると、しばしばブラックの温床と言われるIT業界とか全く報われなさそうな情報系ポスドクなどと比べると、徴兵されたほうがまだ人間的かも、とすら思います。
結論としては「徴兵は悪」というのと同じぐらい「徴兵は不合理」も思い込みに過ぎないんじゃ?というつまらない話です。

「リベラルなのに護憲」?別におかしくなんてありません。

「本当の日本のリベラル」こそまず改憲をめざせ

ですが、BLOGOS側のエントリがスマッシュヒットして支持とコメントを多数いただきました。ありがとうございました。

コメントはいいもの、悪いもの、どうしようもないもの、いろいろあるんですが、その中で気になったのは「日本のリベラルは、リベラルあるいは革新なのに護憲だからおかしい」というのが多数あったことです。こういう話は前々から聞きますし、中には「安倍は改憲賛成だからリベラル、共産党こそ保守」などという人まで居ます。

「リベラルなのに護憲」、実は全くおかしくありません。なぜなら、憲法は手段であって目的ではないからです。革新が革新したいのは、国のありようです。非常に曖昧な言い方ではありますが、現実に国をどうなっているかを変えたいのがリベラルなのです。そのために法律を変える必要があるなら変えるし、実態が法に即していないなら厳密に施行させるようにします。

国のありようというと曖昧なので、労働時間を例に出しましょう。残業0社会を目指したい、というのは立派なリベラルとしての目標です。対して保守派は、経済成長や国益のためにはサビ残もいとわないようじゃダメだ、と主張するでしょう。実際そのように若者を批判して炎上する経営者は何人も居ます。

そこでリベラル政党はどうするの?と言いますと、法整備をし、それを順守させるわけです。では現状はと六法全書を紐解いてみれば、ここで憲法に相当する労働三法は、かなり明確に残業させない方向の法律であることがわかります。であれば、現状を許さず、既存の法を厳格に運用するように仕向けるのが一番ということになります。

こうたどれば答えは明白だろうと思います。KAROSHIの国として名高い日本を革新すべく残業をなくすためには、なんと現状の法律を変えないのが一番良いのです。

大切なのは、現状の法律がどれだけ主張を実現するのに役立つかということです。実際、日本国憲法は、現状かなりリベラルな憲法といえますから、むしろ護憲で当然なのです。

このように考えると、「改憲こそリベラル」みたいどうでもよい形式的定義にこだわった言い方は、政治のなんたるかが分かっていない事がわかっていただけると思います。まあ、ジョークのつもりなのかもしれません。いや、きっとジョークに違いありませんね!

 

ん?そこで「お前リベラルこそ改憲すべきってさっき言ってたよね?」という事に気づいた人はなかなか勘の良い人です。L.starがリベラルとして改憲を主張した背景は、護憲派とは若干違う論理です。

例えば現憲法のリベラル度を10、現状を5,保守が目指す国家像を0、というように表してみます。先ほど示したとおり、護憲派の人は「今の憲法は10なのだからこのままいけば現状も10に近づく」と考えます。

実はL.starはそうは思っていません。5から10に近づくには段階が必要であり、いきなり10にしてもできることと出来ないことがあるでしょう。むしろ戦後70年なのに未だに5なのがその問題を示している、と考えます。なのでそこはむしろ妥協して7か8の新憲法を作り、6か7を中期的に目指すのが重要です。国のありようを変えるのは憲法を変えるよりずっと難しい話です。長期戦で構えないといけません。

ちなみに長期戦と言いつつ、96条改憲による軟性憲法化も賛成です。それはPDCAサイクルをきっちり回していくためで、そのためには法律も結果を計測しつつ情勢と相談しながら、変えるべきところがあれば積極的に変えていくべきと思うからです。今の時代、まずは早さが重要です。

 

そんなわけでつらつらと護憲の話をかいてしまいました。もう一度言いますが、改憲は手段であって目的ではありません。そして、主義主張の本質を決めるのは目的なのです。

 

 

 

「本当の日本のリベラル」こそまず改憲をめざせ

「日本のリベラル」をリベラルと呼ぶのをやめにしませんか
『日本の保守』も保守と呼ぶのをやめませんか

という記事が流れてきました。しかし、個人的に思うに「リベラル」や「保守」が最近劣化したわけでもなんでもなく、もともとリベラルや保守に値しない勢力がそれらを自称していたにすぎません。どちらの側も自分たちの考え方の地位を実際の政治的スペクトラムに当てはめて絶対座標系で考えるということをせず、思い込みで語ることが多いので、都合よく「中道保守」「リベラル」みたいな言い方をするのです。「無知の知」という言葉がありますが、無知であることを知らないからなせる技だな、と感心せざるを得ません。

で、絶対的な指標で考えると自称リベラルや自称保守は要するに「極左」と「極右」と分類すべきものですので、単純にそう呼称すべきでしょう。そう思って、最近では「日本のリベラル」に属する中でも9条護憲のような過激な主張をする人たちを「極左」と呼び、愛国お花畑民族主義を主張する人たちを「極右」と呼ぶようにしています。「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」などという団体が自民党リベラル派だと主張する人もいますが、ちょっとここまでくるともうなんと分類していいかわからなくなります。

実際のところ、欧州の極右などが苦しみつつも自分たちの主張を政策化するべく努力と妥協をやっているのに比べると、日本の極左も極右も「間違った権力者」の否定のみで成り立ち、「想像上の国家」を崇拝することでアイデンティティを維持しているだけ、というのは全く変わらんのです。

え?と思うかもしれません。極左は明瞭な反権力ではありますが、極右は権力志向ではないか?というのはわかりやすい疑問でしょう。しかし、極右の考える「間違った権力者」とは朝日新聞・日教組・中国・韓国なのです。また極左は日本を嫌いなのではないか、と思うかもしれませんが、これも間違いです。極左が愛するのは「憲法9条によって平和国家に生まれ変わった日本」なのであるからして、彼らは日本が大好きなのです。もちろんこんなものはリアリズム的観点から見ると空想上の産物にすぎませんが、極右の考える「愛国」も「愛国デマ」などという単語も出てくるぐらい、大体同じぐらい空想上の産物です。

このように、結局のところ極右も極左も同じ穴のムジナなのです。これは新しい話でもなんでもなく、近衛文麿あたりが戦前に似たようなことを言ってたと記憶しています。

極右と極左は政治的なまともな議論から外してしまうのが健全として、じゃあそれを除くと日本には何が残るのでしょうね?という話ですが、そこに日本の(自称ではない)リベラルと保守のポイントが有ります。

まず「保守」のほうですが、それを考えれば考えるほど日本の政治が現場主義、官僚主導政治であることに気付かされます。安倍政権の昨今の流れを見る限りも、基本的には官僚のやりやすいように解釈を変え、法を修正する、という考えであるように思われます。

その反対の考え、つまり「リベラル」とは、実は「立憲主義」ではないかと思うのです。要するにまずルールを定め、それに沿うように現場を制限していくやり方です。たしかに現場には不都合を強いる部分がありますが、現場に自由を与えすぎることでコントロール不能にする、という最悪のケースを避ける考えでもあります。

こう見ると、今の安保法制に関する国会での議論は、実に興味深い有用なものであるといえるかと思います。「現場の都合」を優先する与党案、「みんなのルールの厳守」を優先する野党の反発、というところです。

与党案を支持する人がしばしば「安倍政権がそんなことをするはずはない」という理由で反対派の疑念を退けるところなどは、典型的な好例であると言えます。憲法とは最悪の事態を想定して作られるものですので、時限立法でもない限り「安倍政権が優秀だから拡大解釈OK」などということは、立憲主義的に言ってはいけない話なのです。

しかしながらこの安保法制議論においては、リベラルを自負するL.starをもってしても安倍政権に賛成せざるを得ないと思わせる部分がおおく、リベラル政治家の情けなさが際立っています。法とはもちろん現場の暴走を縛るものでありますが、同時に現場に必要な権限は正しく与えるものであるべきです。単なる個別自衛権の拡張としか思えないわずかな緩和を集団的自衛権というレトリック以外目立った失敗を犯しておらず、現場に権限を与えようとしている保守に対し、リベラル側は重要な修正を加えられるに至っていません。現場が守れない法律は、どれだけ美しくてもそれは絵に書いた餅にすぎません。

つまるところ、日本人はトップダウンで法を作ることが下手すぎるのです。たぶんそれは人種的問題というより、階層の深い官僚社会が長らく続いていて、法学のような議論に不慣れという歴史的に経験不足という問題と思っていますが。コンプライアンスにしてもガバナンスにしても、日本はお手盛りが多い、と言いたくなる部分が多々あります。こんな惨状では、日本のリベラルは発展しようが無いでしょう。

日本のリベラルが今後発展していくためには、「トップダウンで現実的な制限を課すことで現場の行動を宣言範囲に収束させる」高度な法制度立案能力を持つことが不可欠なのではないか、と考えています。民主党が政権初期に掲げた政治主導というスローガンは、考え方そのものはリベラルとして正しかったと思っています。であるからこそ、立案能力に乏しかった点を反省し、実現できるべく能力を磨くべきです。

そんな中で一番重要なのは、トップダウンで制限を施すという根幹となる憲法改正です。これは、官僚制を是とする保守に絶対させてはいけない作業だというのは、自民党案を見て確信しました。憲法は、リベラルの思想で作られなければいけません。さもなくば、日本は官僚制国家からいつまでも脱却できません。ですので、むしろリベラルが先んじて、保守が妥協できるような案をまとめなければなりません。

というわけでつらつらとじゃあ日本のリベラルに必要な物は?というのを考えてみて、結局「改憲」というところに行き着いてしまいました。戦後70年、日本も新しくならねばなりません。リベラルもまた、日本国憲法にあぐらをかいて努力を怠った戦後型リベラルからの脱却が求められているのではないか、と思う次第です。

帰国しました。

このたび、10月末をもって7年強に渡るオランダ及びニューヨークの赴任生活にピリオドをうち、帰国することになりました。
というか、すでに帰国して、しかも新居も決まって、ネットが開通してとりあえず一段落しましたので、オープンに報告することにしました。
いつのまにやら日本もずいぶん様変わりしているようで、何も変わっていないようで、とりあえず戸惑ったり日本食食いまくったりしております。
とりあえずは四半期以上何も書いてなかった間に色々とあったのでそれから回復するためにも心を休めつつ、欧米ぐらしで学んだことをつらつらとまた書いていきたいなと思っております。

「組織のボトルネック」を見抜いて転職を極めよう

ITエンジニアの価値を貶める『人月商売』の功罪

を読んでみて。

「人月商売」がエンジニアにとってどのような問題点があるかというと、エンジニアの価値を低下させる事になってしまう、という点です。

端的に言うと、「人月」で見積もりを出しているという事は、すなわち自らの価値を、提供価値に対して値段を付ける「知識集約型」ではなく、稼働に対して値段を付ける「労働集約型」へと貶めてしまっているからです。

ITの良い点の一つとして、ルーチンワークをプログラミングで自動化できる点があります。一度システム化してしまえば人の代わりに永続的に価値を生み出し続けられるメリットがあるわけですが、労働集約型モデルで働いていると、永続的に生み出される価値に対する対価は得られず、何人月で作ったかという時間の切り売り部分にしか対価が支払われません

これはどう考えてもITエンジニアのもたらす価値の安売りであり、自らの価値を下げていることに他なりません。

たしかに知識集約vs労働集約とか言われていて、単なる人月商売ではエンジニアが大事にされないとか、そういう議論は昔からずっとされているんだけど。でも例えば小規模ソフトハウスなんかで、最初の方は人月でどんどん高く売れて非常に技術者を大事にしている会社が、どっかのタイミングでガラッと変わってだめに成ってしまったりする。そのとき、別に知識集約から労働集約に明確に切り替えたわけではない。勝手に切り替わるのだ。それについては

社員20人から先に進めない小規模ソフトハウス

などという記事を昔書いたことがあるが、簡単に結論の出ない話で、わりと「夢のない話」と言われたりもした。

問題にすべきは、どんなモデルを持っているか、というのもそのとおりなのだが、何がモデルを決定するか?ということではないだろうかと思っている。実は、ようやくそれについての解答を得たと思っているので今回書き記したい。

それは何かというと、

「その組織のボトルネックがどこにあるか」

だ。

ソフトウェア業界の組織のボトルネックを決めるもの

ソフトウェア業界といっても非常に広い。よく言われるエンタープライズ系とWeb系というくくりなんかがあるが、漠然としていてつかみどころがない。

スーツはスーツ、ギークはギーク、エンタープライズ系とWEB系の溝

などという記事も最近書いたが、Web系かどうかなどという判定方法はあまり見当たらないし、ましてや騎兵/歩兵という分類も、見分ける方法が難しい。しかし、じゃあボトルネックが何かということに着目すると、実はかなり簡単に説明できる。

じゃあソフトウェア業界組織のボトルネックって?という話だが、ここでは以下の2種類の視点を取り上げたい。

需要過多か供給過多か。

ここで需要とは、SIでいうところの「案件」の多寡だと思ってほしい。一方供給はエンジニアによる「生産力」だ。つまり生産力に対して収入が少ない、あるいは少なくなる可能性が高い会社が供給過多、一方やるべきことのほうが圧倒的に多いところが需要過多だ。

組織の効率が高いか低いか

効率というのは、ここでは構成員一人ひとりの生産性が有能で高いか、あるいは普通の人が普通に働いている程度で低いか、というのを問題にする。総じて小規模ほど効率が高いが、それは効率を高める最強の手段が、少数精鋭化というところだからである。

ボトルネックによる類型化

これで、2*2=4種類の会社を考えることができるが、それによって何がボトルネック化が大きく変わる。類型として示したい。

  1. 供給過多で低効率 => 「営業ボトルネック」
    大規模SIer。総じて社員を他者から取ってくる仕事にアサインし続ける必要があり、余ると即損失につながる。また人数も多く、平均効率が高いとは言えないだろう。こういった職場は、需要を確実にするのが安定の秘訣であることは間違いなく、いわゆる「営業」(単に営業というわけではなく、仕事を取ってこれる人)のポジションが非常に重要である。
  2. 需要過多で低効率 => 「組織力ボトルネック」
    大企業の社内SI。社内の作業をこなすため仕事が無い=即損失につながるわけではない。一般に規模が大きく、職務が細分化されており、個々の能力よりも調整能力などが問われる職場である。このような組織では、いかに効率高く現有部署を動かすかがポイントであり、社内政治に精通した管理職がありがたがられる所以である。
  3. 需要過多で高効率 => 「技術力ボトルネック」
    いわゆるWeb系、ゲーム系、初期のスタートアップ。とにかく大量の生産をこなすことが必要であり、営業で頭を悩ます以前に、プロトタイピングの繰り返しとか、とにかくガチャを引くようにソシャゲを量産したりとか、そういうのが重要になる。こういったところでは生産性の高い社員の多寡が重要なポイントになる。
  4. 供給過多で高効率 => 「戦略ボトルネック」
    いっぱい頑張らないといけないのにお金は足りない、最悪のパターン。正直まっとうな会社でこの状況に陥るのは戦略ミス、あるいはスタートアップに失敗しているとしかいいようがない。

UPDATE:@koshianが表を作ってくれたのでとりあえず貼ってみる。

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UPDATE2:やっぱり自分でも書いてみた

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ボトルネックがわかれば、ボトルネックのリソースを活かすために他のリソースを従属させるのが、組織としての最善である。つまり、「営業ボトルネック」「組織力ボトルネック」の会社では、技術力のある社員は二の次で、既存の案件にそって何かをこなすために必須なわけではないのである。営業ボトルネックの会社では、社員は降ってくる案件に応じて受動的に様々な技術に対応することが求められる。

つまりいわゆる「Web系」とは「技術力ボトルネック」の業界である。「エンタープライズ系」とは、技術力ボトルネックでない、「営業ボトルネック」「組織力ボトルネック」の業界の総称なのである。

ちなみに、20人のソフトハウスがステージが変わるのもこれで説明できる。たいていの小規模ソフトハウスは営業力を社長あるいは有力な数人に頼っているが、その限界点がだいたい20人月/月というところだという話。そこを超えると「営業ボトルネック」に移行してしまう。これ以外にも「優秀な社員をボトルネックに近いところに移動させたい」というところから組織の出世が技術から営業あるいはマネジメント系に変化していくとか、いろんなことが推定可能である。

 

まとめ

ということで組織のボトルネックによって、かなりわかりやすい類型化が可能であることを示した。これによって色々分かることがおおいが、最後に一つ、転職のタイミングと、転職先の選定方法に使えるということを示したい。

というか、要するにあなたがボトルネックの解消に役立たなくなるなら、あなたはその組織では重要な人材ではないということだ。その状態で安穏と暮らすか、自分の脳力を活かして解消できるボトルネックを探して、そこで新たな挑戦をすることになる。一番いいのは、あなたがいることでボトルネックが解消するが、いなくなるとまたボトルネックになってしまう、という組織だ。そんなところなら、いつまでも大事に扱ってもらえる。逆に、そこがずれてしまうと、いつまでも便利使いされて使い潰されるだけ、ということだ。

 

 

 

 

ゲーム史的に正しい「マリオが米国で生まれなかったわけ」

ゲーム史的に正しい「ドラクエが日本で生まれたわけ」

に引き続き、「マリオ」正確には「スーパーマリオブラザーズ」が、本当に日本で生まれる必然性があったのかについて考察してみたいと思う。ところで考察すべき点は2つあって

  • 日本初のアクションゲームはレイヤーで考えられているのが、米国発のはパースペクティブで考えられているのが多い
  • 「マリオ」が日本で生まれる必然性はどこから来るか

になる。

 

まず最初に前者をさっさと済ませてしまうと、スクロール系アクションなどで多重レイヤーで奥行き表現を出す手法を日本人が得意としたか、というと完全にそのとおりである。

「ラスタースクロール」と呼ばれる手法などを駆使し、美しい多重スクロールを実現したのは横スクロールでは、ムーンパトロールが最初と言われている。また縦においてはゼビウスこそ使ってなかったが、その後の雨後の筍のように出てきたものの中には、そういったゲームが大量にある。こういう多重スクロールを駆使した二次元シューティングゲームは、当時の日本人の独壇場とも言え、スーパーマリオブラザーズの時代にはもう確立していた。ただ一つだけ突っ込みたいとすれば、これは元々はマルチプレーン・カメラという戦前のセルアニメなどで使われた技法からの発展で、米国の方で元々は使われていたと思う。

 

しかし、次の問いになると首を傾げてしまう。ドラクエの場合、RPGでは米国がはっきり先行しており、WizとUltimaのいいとこ取りという日本独自の取り込み戦略が、あの形に結実したのがはっきり分かるため、順序がはっきりしている。アメリカは先に本格的な方向に進み、日本はそれをデフォルメしながら追いかけた。

ところが、アクションゲームは日米双方でしのぎを削っていた分野である。同じプラットフォーム系のアクションゲーム、というくくりにおいてもマリオ程ではないとしても歴史的大ヒット作のPitfall!がある。例えばPitfallシリーズからスーパーマリオの地位を占めなかった可能性は、決して少なくなかったかもしれないと思うのである。そこにはいかなる必然があったのか?無いとしたら、単純に偶然競争に勝てただけなのか?

だから今回は「マリオに匹敵するエポックメイキングなゲームが米国で生まれなかったわけ」を考察したい。

 

ところで仮に必然であったとすると、以下の様な選択肢が考えられる。

  1. 米国人は、別のカテゴリを開拓するのに夢中だった。
  2. 米国人は、日本人開発者より優秀ではなかった
  3. 米国人は、マリオにチャレンジできるようなゲームを作れる状態になかった。

潰せるものから潰していくと、(2)の優秀な人材というのは、もちろん居なかったわけではない。例えばマリオの宮本氏に匹敵する評価を今日受けている数少ないゲームデザイナーの一人であるWill Wrightのデビュー作は1984年の「バンゲリングベイ」である。後にプラットフォームゲームのプリンス・オブ・ペルシャで評価を受けるJordan Mechnerも同じ年にあの「カラテカ」を出している。

そして(1)の別カテゴリだが、アクション系については、これがたいして見当たらないのである。この頃のアメリカから出てきた2次元アクションのゲーム、などというものはなかったかのようなぐらいないのである。残るは(3)だが、そんな状態になるような大きな出来事がなかったかというと、実はあったのである。スーパーマリオブラザーズのデビューは1985年。その2年前にあの「アタリショック」。その衝撃から米国のコンソール業界が立ち直ることは、ついぞなかったのである。

 

一応説明しておくと、この当時のゲームが出来るプラットフォームは、だいたい3種類に分けられる。安価なゲーム機は、貧弱なCPUとメモリしか積まなかったが、ROMカートリッジと、アクションゲームを動かすためのハードウェアスクロール機能やスプライト機能、つまりはグラフィックのハードウェア支援が強力だったため、アクションゲームを作るのに非常に適していた。高価なPCは、CPUとメモリは強力だが、ハードウェア支援は貧弱で、絵は綺麗だが高速な画面書き換えは苦手。そしてその中間に、ホビーにも適したPCというものが存在している。当時の日本で言うと、順にファミコンやセガMk3のようなゲーム機やアーケード、PC-8801/9801などのパソコン、MSX、と言ったあんばいだ。当然作られるゲームも棲み分けされ、ゲーム機ではアクションが、PCでは演算能力を活かしたRPG,シミュレーション,3Dアクションなどが主流であった。

この状態でゲーム機が全滅したのだから、まともなアクションゲームが作れるはずもない。例えば先程のカラテカは、最初にAppleIIでリリースされている。当時のAppleIIはリリースから何年も経っており、控えめに言ってもファミコンより大分貧弱だった。それを使わざるを得なかったのである。

実際にどんなゲーム機で、どんなゲームが当時リリースされたか、ちょっとWikipediaで調べてみると、愕然とする。

List of console game franchises

は、コンソールゲームで有名なシリーズ物ゲームが、最初に登場したハードウェアごとにまとめられている。ちなみにアタリショック以前のものは米国では第二世代、2nd generationに、ファミコン(=米国ではNESと呼ばれる)は、3rd generationに属する。2nd generationで、日本には有望なゲーム機があまりないとはいえ、それなりに日本初のシリーズが見て取れる。しかし3rdになると、米国産のゲームの数は絶望的なほどに少ない。試しに知らないシリーズを調べてみると、結構な割合で日本のもののローカライズ品だったりする。

このように、マリオに匹敵するアクションゲームを作る余地は、当時のアメリカには全くなかった。むしろ、優秀なアクションゲームを作れる基盤は日本にだけあったといえる。宮本氏が素晴らしいデザイナーであった以前に、もう戦略的圧勝、マリアナの七面鳥状態。

 

というわけでマリオについても独自の考察をしてみた。日本文化と2Dの親和性の存在を補強する証拠はあるものの、それはあくまで副次的要因にすぎず、それ以上に外的要因が大きかった、という印象である。L.starはそもそも最初のコンソール機がプレステで、コンシューマー方面はあまり得意でなかったので、PC方面が最前線だったRPGに比べて苦戦するだろうなと思ったら、意外な方面から回答をもらってしまった。

しかし、アタリショックの原因とかはいろいろ言われているが、影響の大きさには今更ながら驚いた。この失敗を挽回できるコンソールの発表まで結局20年かかっている計算になる。日本メーカー凄い、と思っていたが、実際にはアメリカの自滅っぷりがもっとひどかったんだなあ、と今更ながらに思わされた次第である。

 

 

ゲーム史的に正しい「ドラクエが日本で生まれたわけ」

チームラボ猪子氏が語る「マリオやドラクエが日本で生まれたワケ」

というのがよく荒れておりました。荒れる理由はゲーム史に対する不理解で、例えば以下の文面はゲーム史論文などというテストがあれば0点です。横スクロールアクションとしてのスーパーマリオブラザーズは、もちろんゲーム史的に非常に重要なマイルストーンではあります。しかし、実際には最初どころがわりと後発です。

一瞬話変わるんですけど、これはマリオ。僕の大好きなマリオ。実はマリオというのは世界で一番はじめに、世界で初めて横スクロールアクションという概念を生み出して、実際世界中で大ヒットしています。世界中の人々はマリオを生んだ人に対して、天才なんじゃないかと、神のように賞賛しています。でも考えてみてください。マリオを生んだ人は京都にいて、京都は伝統的な日本の空間の認識によってデザインされた空間に溢れています。もしかすると毎日の生活の中で、自分の生活に対していつも世界は横側にあり、その横側にある世界はレイヤでデザインされていて、普段の生活の中で見ている風景を、そのままゲームという世界に落としただけなのかもしれません。

日本人はレイヤーで理解するから俯瞰的で、欧米人はパースペクティブで考えるから一人称視点、というのは分からなくもないです。例としてFPSが出ていますが、一人称視点でリアルを追求するのは実際に米国の一人勝ちです。しかしよくよく考えて本当にそうなのかというとそれだけじゃないでしょう、という気もする。じゃあ本当にゲーム史から考えるとどうなるのか?というのをつらつらと考えてまとまったので、今日は「ドラクエ」について書いてみます。つまりJapanese RPGとしてのマイルストーンのドラクエの「日本らしさ」について、です。

まずRPGですが、サラブレッド三大始祖ならぬRPG三大始祖があるとすれば、以下の3つでほぼ決まりでしょう。これらは、すべて「米国製」で、RPGという概念がそもそも輸入であることがわかります。

  • Rogue
    ランダム生成の俯瞰的ダンジョン冒険ゲームで、ほとんどすべてのダンジョン生成式RPGの始祖。
  • Ultima
    俯瞰2Dのフィールドを歩きまわり、複雑な戦闘をこなすタイプのCRPGの始祖。なおダンジョンは3D
  • Wizardly
    3Dダンジョンを冒険し、クイックな選択式の戦闘を行うタイプのCRPGの始祖。

あとはこれをどのように解釈して輸入していったかということになりますが、まずUNIX発祥でメモリリソースをバカ食いするRogue型が日本で導入されるのはかなり後で、有名所ではトルネコの大冒険あたりですので、今回は除外します。残る2つ、UltimaとWizardlyは当時のほとんどすべての日本(国産)RPGに影響を与えており、ドラクエも例外ではないどころが、影響を色濃く受けていることを公言しています。ですので、これを「どのように消化したか」が、日本らしさの見せ所になるのでしょうか。どのように、というと、初期のRPGでは3つの点があげられるかと思います。

  • 補助的な冒険の舞台であるフィールドは2Dか、3Dか、そもそも存在しないか
  • メインの冒険の舞台であるダンジョンは2Dか、3Dか
  • 戦術の見せ所である戦闘は、2Dによるタクティカル・コンバットか、単純画面・選択式のクイックコンバットか

そもそもTRPGを、特にD&Dの影響を色濃く受けて誕生したCRPGは、「ダンジョンに入ってお宝を持って帰る」というのが基本的なスタイルでした。その中で視覚情報を元に自分でマッピングをしながらプレイする3Dは、どちらかというと本格的、というイメージが強かったのは確かです。例えば、国産初のRPGと呼ばれるブラック・オニキスは「フィールド(街):3D、ダンジョン:3D、戦闘:クイック」を選択しました。大分あとになりますが、国産のTRPGから展開した本格RPGである「ロードス島戦記」も「フィールド:2D、ダンジョン:3D」を選択しています。

特にグラフィック描画を行う場合、2Dの細かいドッド描画は大変なこともあり、初期には直線だけで書ける3Dが流行りました。これが高性能化するにつれ、確かに2Dは増えていきます。本格的な2D RPGというと、夢幻の心臓あたりでしょうか。

また、日本では「ドルアーガの塔」「ハイドライド」「ドラゴンスレイヤー」を始めとする、アクションRPGというジャンルが勃興します。これはアクションゲーム(通常全方向スクロール)に対して体力、攻撃力、防御力、経験値といった「RPGっぽい要素」を付加したもので、3Dがリアルタイム描写が難しいことから、主に2Dでした。こういったゲームは当時の8ビットパソコン(PC-8801等)でリリースされています。アクションRPGについては、ゼルダの伝説が決定的なマイルストーンでしょう。これも全編2Dです。

さてファミコンでリリースされた初期の傑作RPGとも言える ドラクエは「フィールド:2D、ダンジョン:2D、戦闘:クイック」を選択しています。この頃になると、2DのRPGもそれなりに普及しており、当時の国産RPGとしては実は保守的なものです。ドロー式のグラフィックを考慮しない、アクションゲーム向けのハードウェアの制約を考えると、2Dのほうがやりやすかったのでしょう。後には3Dダンジョンのファミコンゲームもいくつか発売になりますが、全編3Dなのはドラクエから半年後、しかもディスクシステムの「ディープダンジョン」になります。技術的な制約も大きかったせいか、基本的にはコンシューマー機のRPGはしばらく2D主体で進みます。ファイナルファンタジーなどもその一つです。

一方米国では、3Dが優勢です。Ultimaは確かに2D RPGの生みの親でありますしその後もかなり長い間影響力を持ちますが、当時の米国の本格的RPGの多く、例えばWizardlyやUltimaと並び称されたMight & MagicやBard’s Taleなどは「フィールド(街):3D、ダンジョン:3D」です。 米国では引き続き本格RPG=3Dの図式が続きます。日本のアクションRPGが2Dアクションの系譜から進化したのに比べ、「ダンジョン・マスター」が決定づけた米国のリアルタイムRPGは3Dです。

例も出したとおり、日本で3Dが流行らなかったわけでも、アメリカで2Dが出なかったわけでもありません。しかしながら、確かにアメリカは3D,日本は2Dという傾向がはっきりと見て取れます。これはもう一方でアメリカのRPGは硬派で本格的、日本のRPGはカジュアル、というイメージにもつながります。

もう一つ言えるのは、アメリカ=TRPGの延長で自分がプレイするゲームであることを望んだ、日本=エンターテイメントとして物語を楽しむ、というところかと思います。TRPGの延長である米国のRPGは概ねサブクエストが充実しており、一本道には程遠い部分があります。他方日本では、サブクエストの豊富なRPGは、PC-98後期の「ソードワールドPC/SFC」や「英雄伝説4」など素晴らしい物がありますが、やはり主流とはいえません。あくまで物語的に楽しむサブゲームとしてのお使いや戦闘があります。この点でも、「日本=俯瞰的」「欧米=一人称視点」というのが見て取れるのではないでしょうか。

駆け足になってしまいましたが、実際に日本と欧米でRPGの進化に差があることをゲーム史的に並べてみました。たしかに一定の根拠があるように思えますね。ただ、一つだけ気になるのはドラクエの主人公、喋らないんですよね。これは主人公を一人称視する手法だというのは間違いないですが、たしかに若干ずれている気もします。

P.S.

あくまで自分なりに思索を巡らせてみたものなので、誤認の指摘、補強する資料の提示、追加の視点などのコメントは歓迎します!

 

 

 

遠隔操作事件雑感:技術より欺術?

この数日のパソコン遠隔操作事件の進展とあっけない結果には驚くばかりであった。真犯人からというメールが出てきたことにはびっくりしたし、素早く鑑定結果が出たことには更にびっくりした。個人的にはこの後被疑者の行方がわからなくなった時点でほぼ勝負は決したと思ったが、いきなり自白、というのには目が飛びださんばかりだった。事実は小説より奇なり、とはまさにこういうことだろうか。

もちろん今のところは単に法定の外で語っただけに過ぎず、裁判としてはまだまだ先はある。しかし彼の「自白」によって浮かび上がった真実ほどはっきりしたものはなく、個人的には「ああ、終わった」という実感が似合う。弁護側関係者の人のブログのエントリにもそれが見て取れる。

PC遠隔操作事件:すべての謎が解けたあとに残るもの

今後の可能性としてもちろん「自白を第三者に強要された」とか「精神的に錯乱していた」とかという主張も不可能ではないが、正直今明るに見に出た以上のものはないのではなかろうか。

今回注目すべきところはもちろん色々あって、警察・検察の対応の強引さやマスコミから飛んでくる飛ばしっぽい記事として伝えられる「体制側」の問題、最後に自白によって明らかになった被告人の精神状態と、それに結果として踊らされた弁護側など、面白い部分も多いが、ちょっと登場する技術者たちにフォーカスして考えてみた。

ここで登場するのは4種類の「人たち」である。

  1. 被告人
  2. 弁護側技術者(要するにおごちゃん)
  3. 検察側技術者
  4. 「真犯人」

もちろん今となっては4.真犯人=1.だということは分かる。しかし弁護側の主張はほぼ一貫して「被告人はあくまで踏み台にすぎない」としている以上、「真犯人」を仮定せざるを得ないわけであるし、またそれはあの時点では十分蓋然性を持った意見であった。話がややこしくなるのがこの「真犯人」がどれほどの技量の人物かわからないため、スーパーハッカーによる完全犯罪で、被告人もまた被害者であることを否定出来ない点にある。

とはいえ、警察の対応に疑問符が付いている一方で、検察側の技術者は良い仕事をしたのは間違いない。まず争点として「被告人は何の関係もない人物である」というのは最初からなく、関係人物に絞り込むのに成功している。その上で、ファイルスラックまで調べあげて、実際にiesysがビルドされたマシンを特定するのに成功している。

【PC遠隔操作事件】第2回公判傍聴メモ・最初の検察側証人は「ファイルスラック領域」を強調

正直言って、これを見たあとで「このマシンはiesysがビルドされた痕跡がある」というのを否定するのはかなり困難である。1年に及ぶ拘留期間というのも、このへんも含めた徹底的な解析にそれだけ時間をかけたということだろう。もちろん、それが意味するのは「被告人がビルドした」か「被告人のマシンを乗っ取った真犯人がビルドした」のどちらかである。

結局「スーパーハッカーなんかいなかった」という命題を後付で導入すれば、もちろん消去法で「このマシンを使って、C#でプログラムを書けた人」が犯人となるわけだ。しかし、情況証拠がどこまで重なっても、真犯人の可能性を消すことは出来ない。もしも自分でこの証明作業をしていたら、「たぶん被告人が犯人で間違いない、と思うのだが、証明できたというところまで辿りつけない」というところまでしかたどり着けなかったろう、と思う。ある意味では、今回の事件におけるホワイトハッカーの限界、というわけだ。肝心なところは今後の公判のために温存していたのかもしれませんが。

ただもちろん、ビルドされたマシンが特定されたことは被告人=真犯人にとって、非常にショックだったに違いなく、それが今回の無謀な行動の引き金になったのだろうな、とは想像する。

対応して弁護側に近い技術者の動きも、決して間違えてはいなかったと思う。唯一おかしかったのは、おごちゃんの勘が外れていた事か。

遠隔操作裁判に行って来た

正直、この種の「見立て」が外れることは滅多になく、L.starも似たような予断を持っていたので「こいつにiesysとか書けるかよぷげら」という思いがあり、それが今回ハズレを引いた感は否めない。遠隔操作ハッカソンというアイデア事態は良いものだと思うし、ただもしこれで全然出来ないということになると、弁護側としては苦しい立場に追い込まれたことだろう。

対して、被告人だが、弁護側の予想に反して、PCやスマホを隠しておくなど、非常に周到に用意した「ブラックハッカー」であったことが判明してきている。例えば以下に要約がある。

「死のうとしたが死に切れなかった」「いち早く裁判を終わらせたかった」「サイコパスは自分」「お母さんを安心させることが今回の動機」

とはいえ、必ずしも万能なレベルではなかった。(完全な証拠隠滅=HDDのフォーマット以上の行為の難しい)勤務先で不用意にビルドをかけたり、秘密のPCのパスワードを忘れたり。例えばiesysに自己ビルド機能があれば、痕跡をたどるのは一層難しかっただろう。そういったより洗練されたレベルまではいっておらず、それが今回尻尾を掴まれる原因になったわけでもある。しかし、このレベルでも逆に言うと特定できないのか、となるともっと上のレベルが万一確信犯的な犯罪をした時にどうなるのか、という思いはある。

最後に彼は策に溺れてなのか追い詰められてかは正直まだ良くわからない部分があるにしても、メール送信したことが裏目に出て今回の結果となるわけだが、この点も個人的には外された。というのも、彼は非常に心理面は安定しているのかなと思っており、また作戦としては攻め切れないのを見越して検察を切れ負けに追い込むのを目的としていると思っていたので、こんな博打に出る必要性が全く思い浮かばなかったからだ。

いろんな事実やらなんやらが流れてくる中で「お母さんを安心させることが今回の動機だった。」というのが一番印象に残る部分だった。見えてこない「心理状態」が思ったよりずっと重要な役目をしていたな、という感想である。

 

なんかそういう技術的な雑感という名目の取り留めもないことを考えなから、ホワイトにしろブラックにしろ、結局まだ「技術より欺術なのか」ということに思いを馳せざるをえない。技術はもちろん万能ではないとはいえ、今はケビン・ミトニックの時代から格段に進歩している。それでもなお、真実を明かす程の力を持ち得ないのか。それは我々の努力不足なのか、単にたいそれた願望に過ぎないのか・・・