Hitorigoto V6
Buzzing Something Nonsense

日本人は外国で「宗教:なし」と書く ― 民族と宗教が不可分な人たちが犯す間違い

昨日は「ネイション」の話をしたが、それに関連する話を一つ。これは又聞きだったかコピペだったか記憶にない。ある日本人がある書類に「宗教:なし」と書いたところアナーキストと勘違いされて一時騒然となった、という話を聞いたことがある。欧米ではなにがしかの信仰を持っているのが当たり前であり、持たないのは異分子なのである。それでテロリストか何かとの疑いをもたれたらしい。

当時はまだ日本にいたが、なるほど確かに自分でもそう書きそうになる、と思った。実態はどうだろうか。「なし」と書きたくなる日本人の大半は、いかなる意味においてもアナーキストではない。ゆえになにがしかの宗教を書いてもいいのだろう。今L.starは英文として正しいかどうかはさておき”My religion is a hybrid of Shintoism and Buddhism.”と答えている。仏教と神道のあいのこ、である。あとはそれが典型的な日本人のスタイルだ、と言っておけばいい。幸い典型的なカトリックもプロテスタントも、日本人が神道や仏教に抱く程度にしか宗教をまじめに考えていない。ミサはクリスマスにしか行かない。謝肉祭から復活祭までの断食もまじめにしたりしない。盆と正月と冠婚葬祭以外でまじめに考えない日本人そっくりである。まだイスラム教のラマダンの方がまじめである(といっても彼らが断食するのは日中だけで、日没とともに暴食開始らしいが)

この誤解がおこるのは、結局のところ日本人は民族と宗教の区別をする必要がなかったからである。日本人以外に日本固有の宗教を信仰している人はほぼ誰もいず(アムステルダムにはオランダ人の神主がいて神社もあるが、それは例外中の例外である)、ごく少数の他の宗教の信仰者以外はその区別をする必要がないのである。実際例えば初詣を考えると、これは100%神道の行事のはずなのだが日本人の行事のように思われる。もう一つは国教としての神道が敗戦により否定されたことであろう。当時なら自分たちの信じているものを「神道」と堂々と呼べたであろう。地理的状況や仏教や儒教が定着する過程なども、もちろんこの状態を後押ししただろう。

これがヨーロッパだとキリスト教国家は複数あるため、切り出しが可能である。また他の宗教との軋轢も経験している。だから彼らから見るとこの2つが別物なのは自明である。世界的に見たらこの2つは切り離して考えないといけない。

区別がつけられないのは民族と宗教だけでなく国家と文化も区別がつけられない。民族と国家と文化圏がほぼ一致するというのはレアケースであり、たいていはどれかが小さかったり大きかったりするものである。それは貴重なものだと主張することは可能だ。しかし、それは正しく物事を理解しないことの免罪符ではない。むしろきちんと区別をつけて理解することこそ、正しい理解のありようを学べるのではなかろうか。

ヨーロッパ人はうまみと他の味の区別をつけられないが、日本人は民族と宗教の区別をつけられない。違いとは、意外なところにあるものである。だからこそ異文化との交流はおもしろいものである。

日本のナショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説

個人的に、どうも話が合わない、と思うことは多々ある。

外国人 参政権なんかよりずっと重要な話をしないか – あなたは開国派?それとも鎖国派?

において、論点を2つに分けて議論をすればいい、と考えたが、合意点がそれなりにあるのに不思議と大きな壁を感じる。議論をする姿勢のない人ともそうだが、まじめな人にも似たものが感じられるのだ。まるで違い宗教を信仰していて、お互いに聖典についての終わりない罵声の投げつけあいをやっているかのよう。彼らとL.starの間には、どっちが悪いか、ということを抜きにしてきわめて大きい壁が広がっていると言っていいのではなかろうか。それを果たして議論のベースにして正しかったのか?という考えがある。

また「日本とオランダの違い」を列挙するに当たり「もし日本の外国人参政権問題とオランダのイスラム教徒問題を同じに扱う場合、それは何を持ってくくれるのか」という逆説的な問いが頭の中に思い浮かんだ。実はこの2つに共通しそうな概念が一つ思い浮かんだ。

ナショナリズム。

L.starが毎度のように使うマクニールの「世界史」では、今の欧州と中東の問題を「宗教的ナショナリズム」という単語で説明している。ナショナリズムとは「ネイション」という曰く説明しがたいが民族のようなものを中心に、エネルギーやリソースの集約的な利用を可能にしている何かである。そこで考えたのがネトウヨさんたちは「民族的ナショナリズム」に退行しているのではないのか、ということだ。退行?しかし何から?退行と言うからには、日本には民族的でないナショナリズムが存在していたことになる。

その問いに答えるために、ここから「ナショナリズム」という単語を拡大解釈して歴史をひもとき、L.starの一つの独自解釈を述べたい。独自解釈なので用語等のぶれがひどかったり、既存の用法と異なっている可能性が高いが容赦されたい。どのみちまだ近似値的なものであり、具体的に定量化されて示されているものではない。

かつて日本が一枚岩だった、そしてその幻想が失われつつある、いうことはあちこちで言われて久しく、改めて示す必要はないだろう。しかしその一枚岩とは何だっただろうというので、以下のようなものが思い浮かんだ。

  • マスコニュニケーションによるブロードキャスト化した議論
  • 親米資本主義
  • 大企業中心の年功序列終身雇用

一番上は典型的な国民国家の戦略であるからのぞくとして、しかし2番目と3番目も大企業中心と資本主義は相反しない類似した概念といえなくもない。そこで独自研究だが、戦後日本は「民族ナショナリズムによる国民国家である戦前から国民国家である部分を、大企業と官僚がそのまま継承した」というのをぶちまけてみたい。誰か同じ言説をしている人がいるといいのだが。しかしこれによって、大企業が日本で果たしてきた役割の多くを解釈可能なのではないかと思う。出世システムと社会的地位の一致、会社への強い服従の要求、そして転職の少ない新卒採用終身雇用などである。またマスコミや政府に対して大企業が強い支配/発言力を持っているといわれるのも、このような社会形態であれば全く納得のいく話である。

しかし大企業が日本の「ネイション」であったとするならば、それがやはり崩壊の危機に瀕しているのもまた事実なのではなかろうか。企業が「ネイション」であったかどうかはともかく、大企業が従前の能力を果たせなくなったことはわざわざL.starが指摘するまでもなくいくつかそういう説があるし、納得できる部分が多かろう。そこで大企業に代わるネイションを、と考えると

  • 大企業:経済面から精神面までをカバー、国際化しており世界中に存在。
  • 言語:日本国土以上の発展は望めない。
  • 領土:海洋国家であるため国境はほぼ不変。一部の島の領有権問題ぐらい。
  • 民族:日本民族はこれ以上の規模発展は望むべくもない。○○系日本人として増やせるのは移民程度。
  • 宗教:神道は日本民族以外に信者なし。仏教国は連携があまりない。
  • 文化:寿司・アニメ等を中心に現在拡大中。

となり、企業より明確に広いネイションを提示することができない。ここで欧米や中東では国家より民族や宗教が大きいケースがあるため、それらが受け皿になるのだ。しかし日本にはそれがないのが状況を難しくしている。文明は拡大するか崩壊するか停滞するかの3種類かしかありえないため、拡大が難しいということは停滞か崩壊か、ということになるからだ。通常勝者になるのは現在の状況にもっとも合理的な説明をできるものであり、現在のネイションに納得できない人がなにかを発見して新しい支持基盤に移動する、というのはすでに多数起こっており、それによって多数の少数派が生じている。以下にL.starが認識している例を挙げよう。

資本主義のありように疑問を感じた人たち

かつての新左翼である。彼らは60-70年代に安保運動を通じて活躍したが、結局多数派となってネイションを確立するまでの大きさを維持することはできなかった。今となっては、ソ連崩壊もあって共産主義はネイションたり得ないだろうと思う。

民族主義と宗教に再び関心を寄せた人たち

L.starは嫌韓ネトウヨをこのカテゴリーに入れているし、そういう意味で過去の自分がこのカテゴリーに属していたことを認める。彼らはマスコミや左翼の報道、隣国のありよう(反日)に疑問を抱き、それよりもずっと説得力のあるモデルを「発見」した。ネットに散見される愛国的なコピペがそれである。おもしろいのは麻生元総理の立場であり、彼はもともとそういう主張に近く、しかもマスコミから強い(しかも不当と思われる)弾圧を受けることによって民族主義的なヒーローの地位を手に入れていたと言ってよいだろう。おもしろいのは、その麻生を叩いたマスコミや民主党は敵、と見なされていることである。彼らが反日にいらだちを覚える中、民族をネイションの中心におくことで自説の強化に走ることは全く妥当な行動と思う。世界規模が民族の中に収まっていられないほど拡大し続ける中で、彼らが「民族」に退行しているのは、L.starとしては叩かずにいられない点である。いや、過去の自分と同じものを見て嫌悪を覚えているだけだ、といわれるとその通りかもしれないのだが。

民族と宗教の分離が明確ではない日本では、神道への回帰もこのカテゴリに入るのかもしれない。しかし、仏教という枠組みは見たことがない。宗教として、現在それだけの求心力を有していないと言うことだろうか。

国家連合など、国家ナショナリズムの拡大に求める人たち

現在のEUがとった道はこれである。また鳩山総理の「東アジア共同体」はここに分類されるべきであろう。他民族とのいざこざを棚に上げて併合しようというのであるから、当然民族ネイションの方々とはきわめて仲が悪い。個人的にはかつてのパクス・アメリカーナこそ拡大された国家(と資本主義)ナショナリズムの頂点であり、世界的にはこの点で新しい枠組みを必要としているのではないかと思う。しかしそれは日本だけでは決められない問題である。世界的な落としどころとして正しいが、日本としてこれを基盤とするのは難しいのではなかろうか。むしろ東アジアより、ミクロネシアの島国とのほうが理解を得やすいのでは(ただし経済的な問題は大きかろう)

現在の企業のありように疑問を感じた人たち

城繁幸の「若者はなぜ3年で会社を辞めるか」や梅田のシリコンバレー礼賛などが典型例であろう、現在の企業の主に非効率なところに焦点を当て、ネイションとして引き続き企業の役割を重視するが、その改善を促す勢力である。ただし、大企業システムは良くも悪くも非効率な部分とも強く結びついて存在しており、これの改善=現在の大企業社会を直接否定すること、それゆえに大きな反発もある。今頃蒸し返すのもどうかと思うが梅田の失敗は結局のところ自分の言説が他のネイションに対する不快感を巻き起こすことに気づけなかったからだと解釈可能である。

国民国家の実現母体としての企業に疑問を感じた人たち

労働運動の人たちや、反社畜、大企業の労働体制を批判するのはこのたぐいである。企業を直接否定しないが、しかし企業が不当に取り分を求めることをやめさせ、自分らしい生活をというものだ。これは当初上と同じものだろうと考えていた、しかし今日まとめていく上で違うものだろう、ということに気づいた。しかし現在の体制批判と改善を求めている点は同じであり、親和度は高いし、両方に同意する人すらいるだろう。ただ、ここから新しいネイションは見えてこないため、そういう意味では「反現在の企業」でまとめてしまっていいのかもしれない。

日本文化の発展に期待を寄せる人たち

世界に広まっている日本文化そのものをネイションと見なし、それの拡大を持って日本拡大と見なす考えである。ちなみに文化をネイションとなりうると見なすのは、さすがにL.starの新説というか珍説だろうと思う。問題はこういうもののうちどれがもっとも説得力を有するか、なので一人支持しても何一つ意味がない。そもそも寿司食うやつが日本の仲間、と単に見なすのは強引に過ぎる、というのは認めなければならないだろう。

さてこのように考えると、大きな差異を感じるのはお互いに認識している「ネイション」が異なるからだ、ということになる。ちなみにL.starが開国派鎖国派と読んだのは、ネイションのサイズを現在より大きくとるか小さくとるか、ということでもある。

かつて外国人参政権のことを「アイデンティティの問題だ」と言われて頭をかしげたことがあって、それがずっとひっかかっていたが、なるほど確かにこれならアイデンティティの問題である。であるなら、なおさら彼らに対して「No」と堂々といえる。また「想像の共同体」で済ませられるものじゃない、と同様にコメントで指摘されたが、まさに「想像の共同体」の問題そのものであると堂々と反論できる。これは同時にL.starが探していた「救済の言葉」の理解に役立つものでもある。救済とは「ネイション」の確立によってもたらされる。これが分裂している間は、日本の閉塞感も続いていくのだろう。しかし、もっとも説得力と求心力を持ったものが次世代の日本を支える礎になるのだ。「ネイション」が先か、個別政策が先かは難しいところだろう。しかし少なくとも個人レベルでは「ネイション」を念頭に置いて行動でき、それが説得力を持つ結果をもたらしたなら追従者も増えるだろう。

この仮説は、あるいみ去年から参政権問題で、シリコンバレーに関する考えで、日本の今後のありようについて考え抜いたことの集大成だと考えている。むろんおおざっぱで、理論的裏付けにかけるのはその通りだろう。ただこれを文章にできたことで、自分の中にあったもやもやをずいぶんはき出せた。問題はこの仮説を元にどのような行動をとるべきかということで、そこはまあいろいろ考えているのだが次回以降と言うことで。

日本とオランダの共通点って何だろう

ちょっと週末旅行先のパリから帰ってきて今日のエントリは前回のエントリのはてぶから

tonapa tonapa 反対派も賛成派も、これほど条件の違っている国を、議論のネタにしている時点でナンセンス。いや、ディベー トごっこで遊んでいるだけなら無問題なんだけどさ・・・ 2010/01/19

確かにオランダと日本では条件は全然違うわけで、何も考えずに並べて比較するのはナンセンスであるし、L.starもそのような短絡的思考は可能な限り廃している。だが、しかしふと思ったのはそもそもそんなに違うのだろうか、ということ。今日も電車でウィリアム・マクニール博士が「東京とマドリッドの類似性」についてたちどころに3つもあげた、という話を読んで簡単に「違う」と突っぱねてしまわず考えることが重要ではなかろうか、と感じた。そこでふと相似点を考えてみる気になった。

  • 立憲君主制である。
    日本における皇室とオラニエ=ナッサウ家を同列に置くのは難しいかもしれない。皇室は少なくとも1500年以上(形式上、時に実質的にも)日本のトップだった存在である。一方でオランダ王室とて歴史をたどれば案外古いものの、有力貴族筆頭でしかなかった時代も長い。しかし、いずれも現在に至るまで王室/皇室を排せず続けていることは共通点である。なお、オランダにおける王室の人気は極めて高く、日本における天皇誕生日にあたる4/30の「女王の日」という祝日があるのも共通点だ。蛇足だがこの日は先代ユリアナ女王の誕生日(日本の先代天皇の誕生日と一日違いはもちろん偶然だろうがおもしろい)で、時期に配慮したベアトリクス女王がわざと自分の誕生日でなくこの日を祝日として残すことを選んだという。
  • 「歴史的な首都」と「実際の首都」の2種類がある
    オランダにおけるアムステルダムは確かに首都であるが、ある意味首都機能を持たない。議会はデン・ハーグにあるし、王家もハーグ在住である。一方で日本で首都というと京都府民以外にとっては東京であり、その地位は疑うべくもない。しかし歴史的に観れば京都の地位は揺るぎないものがあり、この点でアムステルダムと京都には奇妙な共通点があるといえる。ヨーロッパの他の国に、このような明確な2つの都市を持った国は珍しい。
  • 海洋国家である。
    オランダは17世紀に海洋国家として栄華を極めた国家であり、操船技術等で定評があった。また日本も島国であり、鎖国時期もあったが基本的には海を利用することの多い国である。どうでもいいがオランダでは鰊(ハリング)が国民食の一つといえ、ほかのヨーロッパ諸国に比べて魚を食べる量はかなり多い。日本の魚消費量についてはいうまでもない。
  • 鉱物資源の自給率が低い
    オランダは干拓によって成長した国家であり、山が少ないため鉱物資源が当然乏しい。一方日本は山がちな国であるが、意外にも国内消費を十分まかなえるほどの算出はない。一方、オランダでは北海のガス田という豊富なエネルギー資源を持つ点が日本としてはうらやましいが、石油も石炭も輸入であることは代わりがない。
  • 倹約志向である
    国土の大半が干拓によって作られたため結構な割合で海抜以下の土地が存在し、温暖化問題に非常にナーバスであるオランダ。対して長年の鎖国政策によって経済的には孤立を経験している日本。お互いに全く違う理由ではあるが、倹約に対する意識はどちらも高い。具体的な数字、といわれると出てこないが、日本はなにしろMOTTAINAIの国であるし、オランダ人を民族性ジョークで語ると「ケチ」である。英語でgo Dutchは「割り勘」のことである。
  • 5月に休みが多い。
    これまたくだらないが、オランダの5月は前述の女王の日をはじめとして精霊降臨祭および昇天祭が祝日であり、かなり多い。日本のゴールデンウィークに負けないぐらいである。ただし、残念なことにこれを過ぎると次の祝日はクリスマスであり、集中しすぎている嫌いがあってあまりうれしくはない。
  • クリスマスをサンタクロースと結びつけて祝う風習がなかった。
    欧米でクリスマスというとサンタクロースを思い出したくなるが、元々サンタクロースはオランダの「シンタクラース」が発祥であるといわれており、これはクリスマスではなく聖ニコラスの日(12/6)に祝う。オランダではシンタクラースの風習が強く残っている。これは国をかけた一大イベントであり、観光客にはおもしろくないかもしれないが在住者としてはなかなか見物である。一方最近はサンタクロースも出てくるが、どちらかというと逆輸入品でアメリカの商業主義の象徴っぽく見える。この風習はベルギーやスイスなどでも残っているようで、ヨーロッパ唯一というわけではない。なお、オランダのシンタクラースは悪い子をスペインに連れ去ってしまうが、オランダの冬は寒く、大人も是非スペインに連れて行ってもらいたいと思う。
  • 宗教に比較的寛容であった時期を有する。
    これは私見だが、オランダ人はあまり宗教に熱心ではない。一度カルヴァン派の重要な拠点であり、熱心なプロテスタント国家であったこともある。しかし、そんななかで「カトリック禁止」であった国内にも、隠れカトリック教会があったという。またご存じ「アンネの日記」のように、ナチス時代にユダヤ教徒もかくまっている。日本との江戸時代の貿易も布教に熱心でなかったから可能だった、というのもある。しかしうがった見方をすれば金さえ儲かれば何でもいい、ともいえる(アムステルダム商人とは、これも故意に悪くいえば死の商人そのものである)。現在の政策も、一部過激な反応を示す政党などはあるが、与党についてはイスラム教徒に関して比較的寛容な方向であるといえるのではないか。まあこれは、昨今のヨーロッパ全体あるいは結構な数の国家にいえることで、オランダに限ったことではないかもしれない。ただ、彼らは明確にキリスト教国家であ り、本当に宗教色の薄い現代日本とは異なる。
    一方の日本は狂信的にキリシタン狩りや、国家的ナショナリズムとの兼ね合いとして神道が崇拝された時代があったものの、全体的に観て宗教には寛容というか適当であり、現在の日本人は、神道と仏教のハイブリッドという不思議な形態を何の苦もなく受け入れている。
  • 国土政策による、あるいは植民地政策の失敗による分裂を経験している。
    オランダは少なくとも2度、領土の大幅後退を経験している。一度はナポレオン後のオランダ王国からベルギーおよびルクセンブルクが独立したことであり、もう一つは第二次世界大戦後のインドネシアである。日本におけるこの種の失敗は、第二次大戦がほぼ唯一であろう。特にWW2前後においては、日本では在日朝鮮人、オランダではインドネシア系オランダ人という移民問題を抱える主原因になっている。ただし、オランダではインドネシア系移民にしてもスリナム系にしても、は彼らは引き続きインドネシア系やスリナムであるが、行動様式もほぼオランダ人化しているといって過言ではない。日系ブラジル人がブラジル人化完了しているのと似たようなものである。

このぐらいだろうか。一部こじつけ一部私見で、Wikipediaなら独自研究と要出典の嵐が吹き荒れるだろうことは想像に難くない。ので、まあその程度に読んでほしい。だが、存外いろいろとくだらない共通点があるものである。このうちもし強引に移民問題(外国人参政権という小さい問題ではなく)と結びつけるなら、特別永住者問題に関していえば特にやはり既存のインドネシア系移民等の問題をいかに解決したか、という点からおそらくは多くを学べるのだろう。

本当はその後もっと深い考察につなげないといけないのだが、書いてて遅くなったし、頭の中で思わぬ方向にテーマが移動していったので次回に。

参考:

Wikipedia:オランダ

Wikipedia:日本

外国人参政権なんかよりずっと重要な話をしないか – あなたは開国派?それとも鎖国派?

「オランダが*外国人参政権導入により*ひどいことになっている」というのはガセ

が驚くほどヒットしてしまった。はてなトップページにいた2日間のヒット数が約1万で、これはほぼそれ以前の一年間の20%に相当する。意見もたくさんいただいたし、かなり多面的に眺めることができた。一見たくさんの論点があるように思えたが、実は論点は複雑なものではなかった。一連の「外国人参政権問題もの」のコメントを書いているときも、「外国人参政権に反対か、賛成かはあまり重要な問題ではない」と思っていた。しかし、整理ができたら、それをようやく言葉としてまとめることができた。以前からオランダに住んでいるからこそ思う、外国人参政権論を考えてみたのコメントでも、「もっと大きな枠組みで考えよう」などと言う話をしたが、それを一言で言うと、

「参政権議論の中には、ずっと重大な政策問題が隠れている。それは、日本社会を開放的により広めていくか、はたまた外圧の脅威に備えて防備を固めるべきか」

ということだ。この2つは極東と言われるぐらい西洋文明から遠く、防備のしやすい日本では重要なポイントであり、その選択で何度も成功と失敗を繰り返してきた。

開放的にしていく、というのはグローバル化する社会を見据えて日本社会のプレゼンスを世界に広めよう、というものである。そのためにはお互いの理解を深め、相互利益を尊重して行きつつ、今持つ日本のコンテンツをより世界に売り出していくということになるだろう。これは1850年頃に大成功を収めた施策に習って「開国派」と呼ぼう。

もう一つのものは、迫り来る中国の恐怖、多文化交流がもたらす弊害を重視し、対応するに日本国民の結束を固め、現在ある利益をきっちり守っていく、というものである。大国とは距離を置きつつも、優秀な商品の輸出で利益を上げるモデルなのだろうか、国内の混乱を収めるのにひとまず注力すると言うことだろうか。開国派に対応させるとじゃあ攘夷派?ということになるが、日本には1600年頃に同様の施策で大成功した例がある。それにそって「鎖国派」と呼ぼう。

L.starはどっちか?といわれると熱心な開国派である。正直外国人参政権については弱賛成である。が、鎖国派かつ反対派の意見は受け入れられ無いものが多いので、強く反発している。開国派かつ参政権賛成の人の意見と言えば、だいたい参政権を広げることがグローバル化にそう布石として考えられるから、である。

同じ外国人参政権反対派でも、開国派か鎖国派で論点が大きく異なることに注意されたい。鎖国派かつ参政権反対派の論点は「内政干渉」「他国での危機(例のオランダの悲劇とか)」であり、上記の分析とほぼ一致する。一方で開国派かつ反対派の主張は前回のエントリのelm200氏のコメントにもあるような「早期解決のために帰化の促進や二重国籍を」である。開国派かつ賛成派とは、お互いの相違をあくまで本質的ではなくテクニカルなものだ、と認識できるだろう。が、鎖国派には同じ反対派と言え、二重国籍などは受け入れがたかろう。「違憲」に触れる人も多くは鎖国派であり、開国派の人はL.starのようにどうでもいいか許容説中心で、一部過激な人が要請説を唱えるぐらいだ。

これは旧来の保守・改革というのとはまた違う切り口であるようにも思われる。保守には参政権反対派が多いが、親米・親欧路線があり、これらはもちろん開国派にも受け入れられるものだ。改革の中には、鎖国派に受け入れられるようなのもあるだろう。

最後に日本がこの決断を迫られたのは、開国の時だろうか、はたまた日中戦争の時だろうか。いずれにしても今巻き上がっている議論を見る限り、もう一度この大きな選択肢を迫られているのは間違いない。今の日本を幕末になぞらえる人がいるが、実際そういう時代なのである。

だから皆さん、「鎖国」「開国」どっちを取るべきなのか、という重要な話をしませんか。どっちか決めることができれば、外国人参政権問題を含む多数の問題の答えなどほぼ自動的に決まると言っていいわけで。それはある種の戦争になるかもしれないが、これをはっきりさせるのは今後の日本の戦略上この上ない価値を生むと思うのだ。どっちを選んだから良い、という正解はたぶんない。どっちもリスキーな選択で、デメリットはある。選ぶのはどっちのメリットを取り、そのデメリットを許容するかだ。

最後にこの文章を書いたL.starが強い開国派なので、読む人はがんばって排除したとはいえバイアスがかかっていることをご了承されたい。

P.S. ところで鎖国派かつ参政権賛成、という人も見たことがない。そんな人はいったいどういう意見を持っているのかも興味がある。

15歳の君たちに告ぐ、違いの分かる大人になれ

日本の大学へ行ってはいけない理由

id:elm200さんが最近飛ばしまくっている。本質的な部分において、L.starは彼の意見にほぼ賛成と言っていい(つまり海外に行くべきだ)。が、しかし個別の部分、特に説得力の部分で文章に疑問を感じざるを得ない。

日本の大学の最悪な点は、学生たちに反知性主義を叩き込んでしまう点にある。

これはむしろ大学の問題点ではなく、社会構造の問題点である。大学を悪者にするなら、中学、高校、塾、予備校、どれも同じように悪者であるべきだ。むしろ、偏差値至上主義だった中等教育こそ、知性を否定し条件反射だけを肯定する元凶ではないのか。だから

改善する方法は実は比較的簡単だ。進学・卒業の規準を厳しくすればいい。

こんな方法だけでは手口の巧妙化を招くだけで、多分絶対に解決しないだろう。どのみち卒業して企業に入ってしまえば逃げ切れるのだ。ちなみに「ゆとり教育」はそう言う状況を打破しようとした産物であるが、全く逆の方法をとっている。ちょっと話がずれるが、ゆとり教育は無残な失敗だった、という言い方を良くされるが、ほとんどが従来の詰め込み教育側からの、詰め込み教育的価値観に乗っ取った判定であり、フェアではないなと感じている。ちなみにL.starの考えは、「ゆとり教育」の結果起こった「ゆとり世代」の問題行動と呼ばれるものは、自信のない人間が自己防衛としてとる行動にそっくりであることから、単に失われた20年で若者がそのよりどころを失った結果ゆえであり、ゆとり教育がどうだったのかは本当はよく分からないというか、実は良くも悪くも効果無しだったのではないかとまで考えている。まあ個人的な意見である。

話を戻して説得力の部分であるが、結局「海外に行け」というのは手段でしか無く目的ではない。

15歳の君たちに告ぐ、海外へ脱出せよ

もそうだが、強い方向性の示唆とその手段はあるが、目的が希薄である。また、大学教育に対する否定の言葉は非常に強く、海外を肯定するより日本にいては駄目だ、といういいようになる。いつもの言い方をすると、救済の言葉がないのである。

そこでふと考えた。海外にいて、何が身につき、どのようなことに気づき、どのような救済が得られるのか、というのを説明すべきではないのか。学力だろうか?日本の大学のレベルは、上の方ではそれなりに高いので、正直よほど専門性の高い場所か、レベルの高い大学でもない限り相応のことが得られるであろう。だから正直わざわざ学力だけのために行くとは思えないのだ。そう言う意味では、わざわざ海外の「大学」に行く必要などあるとは思えない。なら、別に15歳に対するメッセージである必要は無い(もちろんelm200氏にはそうである必要性がある。タイトルで釣るために:) )心が若ければ誰にでも受け止められる、もっと普遍的な言葉があるはずである。

・英語力
これは「高い英語力を身につける」という知識技量的意味ではない。平均的日本人の英語レベルが実は高い、ということを認識することである。ブログで書いたかどうかは覚えてないが、ヨーロッパでも英語が通じやすいというオランダは、実際よく英語の通じる国である。しかし、大半のオランダ人の英語はブロークンで、文法単語両面においてたいしたことはない。日本の中学生レベルである。しかし日本人は英語がしゃべれないと考えている。まあ実際英語を「使う」ことについての「壁」があるのだ。まあ良く言われることである。その壁を以下に克服するかは使うのが一番なのだが、もう一つはいかに自分のレベルが高いかを認識することである。それが自信につながる。日本人は自分たちの英語レベルに自信を持っていい。なにもオランダ人をおとしめたいわけじゃない。日本人が勇気を出して中学程度の英語をがんばって使うなら、それはもう一般人としては十分以上のレベルだと言うことだ。そしてむろん、海外生活は多言語の会話力向上の強い味方である。

・ワークライフバランス
日本人は日本人のワークライフバランスで生きているのがあまりにも当たり前なので、他のバランスがあると言うことを理解できない。頭で分かっていても体で理解できない。それを理解するためには、実際に別のバランスの仕事に身を置くことしかない。一例としては、会社のために家族も趣味も捨てて滅私奉公する社畜なんかがいいだろう。海外ニート氏は、実際に海外での勤務経験を通じてその呪縛から解放された人である。ちなみに欧米でもエグゼクティブクラスは死ぬほど働く。が、これはその代わり責任も当人に対するリターンもバランスとってる一般社員とは桁違いであり、別物と言える。

とまあ2つ上げてみたが、一般化すると「価値観の違い」だろう。朝食に何を食うか、友人とどんな話をするか、言語にどんな特有の言い回しがあるか、何がブームか、好きか嫌いか丁寧か雑か、そう言う一切合切の「違い」を認識できることこそ、海外で身につけられる、身につけるべきものだ。それは関東と関西にもあり、海と山にもあり、男性と女性にもあり、文系と理系にもある。だから日本だけで十分、と切り捨ててはいけない。世界にはもっとたくさんの違いがあり、違わないものがある。大切なのはどちらかが優れていることではない、お互いが異なっていて、異なっていることを理解していることだ。優劣は一方にしか働かないが、差異は両方に働く。日本が海外から学ぶことが多かったように、欧米もまた日本からたくさんのことを学んでいる。それができるためには、まずお互いがお互いの違いを知らなければならないのだ。

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とまあここまで考えて、結局海外に出ることは有効な手段の一つだが、必須でも何でもないんだな、と言うことに気づいた。だから最後に私なりに「15歳の君」に提言ができる、と思う(多分読んでないけど)

それは「違いが分かる大人になりなさい」ということだ。たくさんのことを経験し、学ぶことによって、広い視野をもって、違いの分かる人になって欲しい。そのためには海外に出るのもよし、本を読むのもよし、専門を持つのもよし。かつて日本に存在し、経済成長の原動力になった画一化された社会という幻想というものはもうない。みんながどれだけの違いに気付け、それを共有できるかが、我々の未来を明るくするか真っ暗にするかを決めると言っていいのだから。

単に闇雲に行動してくれと言うのはL.starとしても心苦しい。が、しかし私はこの「気づき」を教えることはできないし、教わることもできなかった。反復訓練は心に響かない。知識を鵜呑みにしてもそのままでは役立たない。自分で成功と失敗することだけが本当の意味で唯一の勉強法になる。心配しなくていい。誰もが通った道なのだ。思い切って失敗しなさい。そして体に刻みつけなさい。

そして見つけた違いはしっかり咀嚼して欲しい。嫌いだからと捨ててはいけない。違いのなかにある、あるいは違わないことの中にある本質を見いだしてほしい。オランダ料理がまずいのにはたくさんの理由がある。文明が滅びるのにもたくさんの理由がある。インターネットがあるのにも理由がある。全部知らなくてもいい。知っている人同士で補完しあえばいいんだから。でもだからこそ、自分が一番知っているものを持つべきである。

最後に違いとその理由が本当の意味で分かれば、新しい「違い」を意図を持ってもう一つ世界に加えることができるだろう。それは、我々文明に生きて文明の中で死ぬ、違いの分かる人に課せられた本当の義務だ。金とか名声とかはその過程で手に入れられるものだが、あってもなくてもどうでもいい。

この本当に広くて狭い世界にようこそ。我々と一緒にこいつをどう良くできるか、最善の限りを尽くしましょう。

「オランダが*外国人参政権導入により*ひどいことになっている」というのはガセ

民主党政権・鳩山内閣への重大なる懸念

というのがWikipedia:外国人参政権にまで言及されているのを見て、いいかげん以前のエントリより明確に書いておかないといけないかと思い、改めて書いておこう。

オランダはEU域外の外国人への地方参政権付与からトラブルが始まって、やがて内乱に近い状態になった。外国人は都市部に集中してゲットーに居住 し、別国家のような観を呈した。そこにオランダ人が足を踏み入れると敵意を示す。外国人はオランダの生活習慣や価値観を嫌い、祖国のやり方を守るだけでな く、オランダの文化や仕切りを自分たちの流儀に切り換え、変革しようとさえする。時刻の宗教や文化を絶対視し、若い狂信派を育てて、オランダの社会システ ムを破壊し、つくり変えようとする。

オランダ政府はいろいろ手を打ったが、すべて手遅れである。外国人が一定数以上を超え、政治発言力を持ち始めると、取り返しがつかなくなる先例をオランダに学ぶべきである。

これに疑問を呈する人も多いが、ガセである。どこがガセかというと、外国人参政権が絡むところがガセなのである。これの元ネタと呼ばれるのは

娘通信 : 外国人地方参政権問題その4・・オランダの荒廃。

で、それはメルマガに寄稿されたものの転載で、さらに元ネタとしてFrontpage Magazineからの翻訳であると示されている。読んでみると分かるが、翻訳とされる部分のどこにも「外国人参政権」という単語は出てこないのだ。翻訳文と、最初の引用から「外国人参政権」を除いた文章はそっくりと言っていい。もっと言うと全体は「オランダ怖いね。しかし外国人参政権とか言っている日本も他人事じゃないかもね」という2つの異なる文章である。これで気づくだろうか。

ちなみに、Frontpagemagの元ネタは存在する。が、van Go*u*ghという明確な人名間違い(これでぐぐっても出てくるのは日本語のページばかり)や、あからさまな単語がいくつかあるにもかかわらず探すのは困難を極める。google web履歴のおかげで再度探し出すことに成功したが、どうやって見つけたのか全く覚えていない。

The Death of the Dutch?

である。訳はだいたいあっていると言えるが、もちろんここにも外国人参政権に関する非難は一切無い。日本では非常に人気のあるコピペの元になった文章であるが、日本以外では大して人気でもない、無名の記事である。これが非難しているのはつまるところオランダの移民政策である。

なんのことはない、「オランダの荒廃記事」の感想として「日本も外国人参政権問題あるし心配だ」というのがあって、その記事がコピペされる間に合体し「外国人参政権でオランダが荒廃した」になっただけなのである。

同様のことは

移民問題と参政権問題を混同している反対派

でも指摘されている。まあ混同される理由はそういうことなのだ。「オランダの悲劇」が本当に存在するとして(L.starは疑っているが)きちんと説明するのであれば、このコピペの系統とは全く異なる論証が必要になるだろう。残念ながら見たことはない。

ちなみに某SNSの外国人参政権反対関連のコミュニティで「これは反対意見として正当なのか」という議題が出ていたのを見た(このblogが貼られていて、リファラをたどって発見した)が、それを言い出した人は周りから袋だたきにされていたのを覚えている。内ゲバとはああいうのを言っていたんだろうなぁ。

参政権については、いや他のことについても、感情論によらない冷静な意見が求められている。反対派の意見は聞いていて「おまえ達は反対したいために理由をでっち上げているだけだろう」と強く感じるばかりだ。多分推測だが、そう言う人たちは心の奥底では外国人(特に中国人と韓国人)を一等下に置くことによる優越感を維持したいのだ。だからアイデンティティの問題なのである。戦後社会が行き過ぎた反省を求めた反動としてのナショナリズムなのだが、かつて嫌韓とか言われていた時代よりずいぶん右に行ってしまっている気がする。

一方でL.starも「そんな残念な理由で反対するのに賛成できるか!」と声を荒げている点はおかしいし、自分の意見に固執する余り冷静さを欠いているかもしれない。まったくこんな不毛な感情論よりも、きちんと練り上げた戦略によってアウトプットを出す、ということに注力しなければいけないのに。

社員20人から先に進めない小規模ソフトハウス

転職歴の多いL.starは50人以下の従業員のソフトハウスに、既に数社勤めている。また、知り合いの会社など含め、オープンソース関係を中心に、情報交換しながらいくらかよく知ることができた。

縦割りの一部門はともかく、多くの独立開業エンジニアは、もちろんそれなりの勝算があって起業しているに違いない。まず一つあげるとすれば、少数精鋭は、大企業の硬直した体制に勝る。例えば大きなSIerの下のくだらない案件の問題点というと、馬鹿げたコーディング規則やいつまでも前構造化プログラミングかと言いたくなるような古めかしい設計などがやり玉に挙げられる。しかし質の低いかもしれない100人に安定して同時に作業させるには、やや馬鹿げた程度に抑えるのはおそらく必要なものであり、その人海戦術によって発生する膨大な開発工数は大企業にしかハンドル不可能である。しかしそう言うモデルではハンドルするに小さすぎる案件では、少数精鋭の高効率モデルのほうが圧倒的に強力であるから、小規模ソフトハウスにも十二分に勝算がある。

他にもいろいろあるが、やはりニッチに素早くターゲッティングできる小回りの良さが、小規模ソフトハウスにはある。L.starが見てきた会社の多くは、うまくそういう良さを発揮していた。最初のうちは。しかし、そこから先、社員50-100人規模を支えられるだけのビジネス拡大には向かない。ジリ貧の原因は2つある。収益モデルと投資力だ。

主に人月商売をしているたいていのソフトハウスは、実は非常にコスト高である。最低でも売り上げの33%程度は直接的な給与支払いに、それとほぼ同額程度の社会保険などの支払いがかかる。しかも生産物は人月から生み出されるものだから、生産のためにほぼ100%割り振らなければならない。

ここから抜け出すのに必要なのは投資である。考えられるものとしては社内でのツールやプロダクト開発、あるいは商用等のツールの導入、新規営業による受注拡大などだろう。どれも金よりも人手間仕事である。これを引き出すのが難しい。20人ぐらいになると管理のコストも馬鹿にならない。非プログラマ要員として雇えるのはせいぜん2-3人にすぎず、販路開拓のための営業を雇うのも苦しい状態だ。そして営業一人程度でできることには限界がある。そもそも元々コスト高な事もあり人を雇うのもリスクがある。結局社長が営業を兼ねたりする。そして、だいたいにおいてソフトハウスの社長などというのは技術者上がりであるから、優秀な営業になれる確率は高くない。

これがまだ5人ぐらいのときなら、管理のコストが小さいため、全員が死ぬほどがんばってカバー可能であるし、社長も自分のコネで十分な仕事をとってこれる。20人はそこで、多くの会社がぶつかる壁らしい。その観測結果から「20人前後の小規模ソフトハウスはジリ貧」という一つの結論に達した。「20人前後に縦割りされた大企業の一部門」もだいたい同じである。当然例外はいくらでもあるんだろうが、不幸にしてほとんど見たことがない。むろん会社を大きくするのは常によいことではない。しかし、できるかどうかとやるかどうかは違う。

今のところこの結論を破るための方法論というのはちゃんと持っていないが、以下のようなものが考えられるだろうか。

・収益構造が人月と比例しないプロダクト持ちになる。ただし、プロダクト開発に必要な投資工数を考えると、それを回収できるだけの売上を得るのは大変である。プロモートまで含めればなおさら。また、顧客基盤とビジネスモデルの大幅な転換を意味するため、今までやってきたことがなんだったのか、ということになりかねない。また、サポートやサービス保守のたぐいも良い。いずれにしても大きな工数はかけられないため、大企業の資本にものを言わせた攻撃には耐えられない。いかにニッチを貫くか。

・まとまった案件を受注する。案件が大きくなればそこに最適化の余地が生じるし、総額が大きいので余裕が生じる。大きすぎたりすると、かえってデスマーチになって問題にもなるかもしれない。一般に大きな案件から共通化できる部分を拾って商品化、という上と絡めた作戦が聞かれるが、実際には日本での案件はあまりにも個別すぎるので、商品化可能になるほどいい線は行かないことが多い。また、細かいのを大量に拾うのは、スキルセットの散逸などを招き根本的な解決にならない。営業基盤の拡大にはなるかもしれない。

・そもそも小規模ソフトハウスにならない。最初から一気にプロダクト専業として開発する。スタートアップ資金を用意しての、本当のベンチャー式企業を目指す。資金調達方法と、コストの削減(この場合人件費は最悪0換算可能であるが)が最大の問題だろうが、まあ一般的な起業である。

テーマ変更(3)

新年早々書く事も思い浮かばずにとりあえず変更。

今回はImagination の Imperial blueスタイル

テーマ変更(2)

お次は同じところからminiblog。今までとは全く逆の白いやつ

http://forthelose.org/themes/miniblog/miniblog-a-premium-wordpress-theme/

テーマ変更(1)

某所の短編小説の解説を書こうとか、そう言う話もありつつでもオランダの冬にやられてだるいので、気晴らしにテーマを変えてみた。
当面いろいろ変えてみて、気が向いたのにする予定。

今回のはJenxedというやつ。以下からダウンロード可能。

http://forthelose.org/ftl-themes