国際人たちに聞いてほしいこと。そして排外主義者の人たちにもっと聞いてほしいこと。

By L.star, 2010 年 7 月 27 日

最近のうちの周りのブログ、排外主義がテーマである。

不景気だからこその移民政策のススメのコメント欄から始まって移民もまた人間であるそして日本人が本当に大嫌いなのは「異質な人々」まで飛び火している。実はあなたの国際人レベルはどのくらい?も元々はそこをテーマにしている。

ところでこういう排外主義が日本特有かというと、そうではない。排外主義は世界的には珍しいものでも何でもなく、反イスラムという形でならオランダ自由党PVVをはじめごまんといる。アメリカで最近話題のティーパーティーもそうである。最近東欧では反ユダヤが流行りだそうで又恐ろしい話である。そうでなくても、民族ジョークには差別ぎりぎりのやばいものまである。

さらに誤解しないように付け加えないといけないのは、排外主義は確かに勢いがあるが、いまだ非主流ということだ。例えば欧州では。オランダのPVVは先の総選挙で24議席を取って躍進して大きく注目された。しかし、与党に食い込めるか怪しい状況である。ハンガリーでは第二党を取ったという話は聞いている。しかし、ドイツ・フランスなどの主要な国では、そこまでではない。

前回のエントリでは国際人としての分類分けをしたが、レベル2、つまりグローバルで活躍することを選ぶと、グローバルが速いペースでの進化を要求するため、どうしても保守的な排外主義者とは対立してしまうことになる。もうそれは運命である。しかもグローバルの世界は圧倒的な強さでこちらを追い詰めてくる。前線にいる国際人としては、前門の「文明」後門の「排外」、とでも言いたくなる状況に追い込まれてしまう。せっかく日本のために戦っているのにこれでは報われない。

でもあきらめずに頑張るしかない。グローバルとの戦いに簡単な解答などないように、排外主義との戦いに簡単な答えなどない。

L.starにとっての排外主義との戦いはオランダに住んでいるからこそ思う、外国人参政権論を考えてみた前後あたりがスタートである。そのときは外国人参政権と絡めて知的移民の必要性について論じたが、ネタがネタなのもあってまあよく荒れた。しかしその1年後に書かれた、参政権のさの字もないLilacさんやelm200さんのエントリのコメントを見る限り、何一つ進歩がないように感じられることに愕然とする。

ただ、個人的に排外主義者のコメントにはうんざりするが、それでも彼ら自身を嫌いになることは難しい。と言うのも彼らのコメントには、自信のなさがはっきり見えるからだ。「差別と外国人が嫌いです」とでも言わんばかりの相手に対するステレオタイプ的蔑視、ノー・トレランスに近いリスク回避傾向、マスコミや政府などの他者への転嫁。

全て自信が無い人の行動である。与えられた要求に最適化したゆとり世代や、ただただ自分たちの目の前に忠実な官僚を責められないように、やっぱり排外主義者も責める気にはなれない(とかいいつつ暴言コメントは吐くけど)

自信が無い人は答えとして別の何かにその源を求める。しかしそれは間違いである。残念じゃない日本ってどんなのか、考えたことがありますか? – みんな、自分に自信を持とうでも考察したが、自信は結果より先に醸成されるべきものであり、それを生み出す機構に欠けているのが日本における精神的な問題であるのだ。

だから排外主義者の人たちには、今一度自分と日本文化とのあり方をしっかり考えてほしい、と思うのである。あなたの信じている日本という国の、地方の、文化の与えてくれる自信は本当は幻想に過ぎず、自分の中に最初からあるものだと言うことに気付いてほしい。日本が素晴らしいから日本文化が素晴らしく、それに属するあなたも素晴らしいというのは間違いだ。あなたが素晴らしいから、それを要する日本文化も日本も素晴らしいのだ、と言うことに気付いてほしい。

ここで言いたいのは「日本を愛するのは駄目」というのではないことにも注意してほしい。何を愛するのも何を嫌うのも個人の自由だ。ただ順番がある、あなたがあって、世界がある。それが唯一の正しい解答だから。そしてその上で日本を好きというのは何一つ問題ない。

そして、日本が好きなのだから、「日本が何をしてくれるか」ではなく「日本に何をしてあげられるか」を真剣に考えてほしい。日本が素晴らしくあるためには、その構成員全員のたゆまぬ努力が本当に必要なのだ。誰かの揚げ足を取るのは辞めて、自分が進んで日本のために何かをまずしてほしい。敵は世界だ、と言うことを改めて認識してほしい。そのためには、日本の中で争っている余地など本当はないのだから。

最後に、たとえ排外であれ国際的であれ、ノー・トレラントは拒否したい。我々の世界は常に問題だらけで、メリットを信じながら一つ一つ問題をつぶして、それでやっと少しづつ進歩するようなことの連続である。いつも成功より失敗の方がずっと多いのである。そこで「失敗するかもしれないからチャレンジしない」などという甘えた考えは、現実を見ないきれい事にすぎない。

プログラマの間では、こんなジョークが知られている。

「バグのないプログラムの書き方?そんなの簡単だよ。1行も書かなければいい」

我々の世界をシステム開発にたとえるなら、常にバグと戦いながら少しづつ改善していくプロセスなのである。よくするためには、悪くなる可能性があるのを分かってでもコードを書かなければいけないのだ。それを怠ったとき、システムは死ぬ。日本を殺したくないなら、良くも悪くも挑戦あるのみなのだ。

あなたの国際人レベルはどのくらい?

By L.star, 2010 年 7 月 27 日

L.star界隈のtwitterでこんな話題が。

私は日本人なのだが、たぶん一般的な日本人があまり好きではないのだ。私が抱えているもっとも大きな心理的問題は、民族同一性障害なのかもしれない。

元ネタになる一連のツイートは知的移民問題と絡めてである。L.starも昔やったことがあるが、これは結構荒れる。しんどい問題である。

民族同一性障害、というより、人は根本的に文化に対する接し方が異なる。だから民族に対するとらえ方より、民族と他文化と自分との関わりで類型化できるのではなかろうか。日本人が英語をしゃべらなければならない理由で語った文化=文明モデルを元に、国際人としての分類分けをしてみたい。

レベル0:自「文化」中心型

基本的に自「文化」を真ん中に据えて、他の文化の存在に否定的、あるいは好奇の目で見ているだけの人。世界に関する関心は薄く、ややもするとバカ世界地図に出場できる知識しか持っていなかったりする。しかし自「文化」についての関心は強く、総合的理解度も高く、その効能を強く信じている。しばしば情緒的である。というのもどの「文化」も歴史的地理的経緯から発生する非合理を抱えていて、それとうまく折り合わなければいけないからだ。

基本的に保守的であり、自「文化」を正しく守ろうと言う気概があり、それゆえに他の文化から学ばない。日本国内で日本語で生活していて、外国と交流していない人の大半はこのモデルではないかと思う。

なお、レベル0をこじらせると他文化を強く否定するようになり、立派な国粋主義者になれる。

レベル1:P2P型

自「文化」に加えて、他「文化」の存在を肯定的に認知している人。ただし、それは自「文化」vs「諸外国」という二元論で、通常「諸外国」といっても特定の1国程度で、主に特定の専門分野を通じて交流している。インターフェースそのものは狭いが、その内容は密で、両「文化」の架け橋になる存在である。2つあるどちらかの「文化」を軸足に持ち、他方の良いところを取り入れるのが基本になる。例えば「和風フレンチ」などは典型的な例といえよう。

以前日本人はどの程度英語をしゃべれるべきかにてレベル4の英語をしゃべる人は、と言ったことがあるが通例そういう人はこのレベル1である。

レベル1をこじらせた人は軸足を見失って外国かぶれになる。諸外国のありようが何でもよく見えてしまうわけだ。

レベル2:スター型

「文明」の持つ特性とその長短所を理解している「文明」人。この人たちにとっては自「文化」はたまたまよく知っているものであり、多数ある一つに過ぎない。大抵論理的である。というのもレベル0とは逆に、「文明」にはその成り立ちからも非合理があまりないため、情緒的な人から見ればあまりにも殺風景で、耐えられたものではない。

一見レベル1より良さそうに見えるが、結局「文明」というハブを通じてものを見ることになりがちなのと、多数「文化」を目にするために、一つから大きくは学べない。その代わりに、あらゆる「文化」の長所を組み合わせるようなダイナミックなこともできるのが特色である。近代日本は幕末の混乱の反動からここにうまくジャンプできた例かもしれない。陸軍をプロイセンに、海軍をイギリスに学ぼうなどと言うのは

レベル2をこじらせた人は、実は自分自身を見失って分裂したり迷走してしまう。レベル0,1にはあった軸になる文化が、ここではあまりにも希薄になってしまうからだ。それを防ぐためにも論理によって自分を正当化できることは重要である。

レベル3:真の国際人

レベル1も2も、実は国際的な文化交流のモデルとしては不完全で、完全になるためには両方について熟知する必要がある。

だからこそ「文明」と「文化」の両モデルを完全に理解して使いこなせるのが真の国際人である。ただ、これを今できる人は限られた天才だけだろう。例えば大好きなマクニール先生のような偉大な学者、政治家や芸術家はこのクラスを達成しているかもしれない。個人的には目指したいと思うが、自分自身のライフワークとしてならともかく、生きる武器としての国政制としてはいささかオーバーキルではなかろうか。

番外:世捨て人

そもそも交流を拒否する人。深い説明の必要はないだろう。

 

いかがだろうか。ただし、このレベル分けにしたところで、同じ人でも項目によって異なる、ということだ。例えばNetscapeのCTOだったマーク・アンドリーセンはプログラマーとして、あるいは起業家としてレベル2以上かもしれない。しかし彼は中国に出張してすらピザしか食わなかったと言う噂を聞いたことがあるので、それを真に受けるなら食文化的にはレベル0だったようだ。いやジャンクフード好きというのは立派な食文化レベル2なのかもしれないが。

あるいは逆に日本人がいくらレベル0が増えているといっても、ミシュランが驚愕する東京などをみれば、食に対する豊かさはレベル2であろう。

同じ項目に置いてすら複数のレベル分けが共存しうる。例えば一見伝統的に見える芸能ものが、実際には他文化の同等品を徹底的に研究し尽くしていたり、とかである。フランス料理は伝統料理かもしれないが、最前線のシェフはあらゆる料理食材を研究していることだろう。

最後に一番重要なのは、「文明」と「文化」は相互補完的であるからして、レベル3のような理想像を除けば、どのレベルが正しいというものはない、ということを肝に銘ずる必要がある。どのレベルも本来同じように重要であり、相応の敬意を持って迎えられるべきである。こじらせたやつはやっかいだが、しかしそれはレベルでも同じなのである。

言い換えると日本「文明」はレベル0,1,2「文化」の人たちで構成されているというのは言い過ぎだろうか。同じ構成員なのだから、お互い協力して強い日本をつくっていきたいものである。

日本人が英語をしゃべらなければならない理由

By L.star, 2010 年 7 月 22 日

また英語ものだが、前2回の

日本人はどの程度英語をしゃべれるべきか

日本人が英語をしゃべらなくて済む方法

と続いた後、その次のエントリとしての「グローバルとローカルの関係」という内容を書くのに大苦戦した。いずれも「世界と日本人がどのような関係を築くか」というのが裏のテーマとして存在していたのだが、頭の中の鮮烈なイメージを具現化するには、いろいろと不足していた。実際4つぐらい没がたまり、そろそろあきらめようとしていた矢先に、イメージそのままの文章が見つかった。

地域の固有性を守るためにも、グローバル化に関与しなければならない。

私たちは、「文化」と「文明」の区別をする必要がある。インターネットの時代に、世界共通の流通のインフラとして構築されつつある「文明」と、それぞれの地域に育まれ、いわば「温存」されていく「文化」と。インターネットを通して、世界の文明がいわば地球規模の「単連結」なものとして発展していくことは、それぞれの地域の文化が消えてしまうということ、あるいはそれが世界中へと流通していくことを必ずしも意味するのではない。

まさにこの「文明」と「文化」という2単語に集約されていると言ってよい。繰り返しになるが、グローバルで話されている英語と英米人が話す英語は別物で、それと同じように、英語の裏にあるものも別物なのである。

 

「文化」同士が交流を行うとき、それはどちらかの母語がベースになってのP2P型になる。しかし、「文化」は地域にしっかりと根ざしたもので、交流は非常に限定的にならざるをえない。

例えばオランダ人と日本とのこのようなコミュニケーションを見る限りでは、いずれもお互いの「ちょっと面白そうだと思ったもの」を楽しむ程度にしか理解しようとしない。オランダ人はSUSHIを楽しむかもしれないが、それはあくまで「珍奇な料理」としてであり、日本食の文化的体系になど全く興味を持たない。

「最近の死ぬほど暑い日にオランダ人にそうめんを振る舞ったら、こんな食べやすい料理があるのか!と驚かれた」と言う話を聞いたが、ひょっとするとそうめんもヨーロッパで大ヒットするかもしれない。しかしその場合、たまたま欧州文化に無かったものを埋めるために輸入するので、そうめんにある日本文化のバックグラウンドは無視される。

同様のことは日本人だってやっている。例えば普通の人にとってカレーライスは日本の文化であり、輸入元のインドや欧州の文化を感じるのはごく少数である。また日本にある厚切りの食パンに相当する食べ物は実は欧州にはない。あれは日本の米食文化にもとづいて、パンを主食と解釈し、主食らしくなるように改変した結果である。日本人からはそう見えないかもしれないが、パンは明らかに米の代用品にすぎず、米食文化の本質には全く傷がついていない。

これは日本と欧州、オランダとの交流の例を取ったので非常にお互いに文化的距離がある。もちろんヨーロッパ諸国内などでは、日本よりもずっと距離が近いために、もうちょっと楽になるかもしれない。いずれにしても困難な道のりである。

このようにP2P型で行われるやりとりは、お互いの文化を尊重した形で行われ、たまたま足りないものがあった場合にそれが部分的に取り入れられる。既存の文化をわざわざ破壊してまで導入する価値があるものというのは多くないし、たとえ多かったとしても毎回都度文化をぶちこわしていてはコストが掛かって仕方がない。だから、頻繁に文化を取り入れないことには合理性がある。

 

そして、世界にはもう一つの「文化」同士の交流法がある。それは「文明」を経由して行われる、スター型の交流である。

「文明」という主体はあまりにも漠然として判別しづらいが、交易などを通じて不明瞭な形を表しつつある。なにしろ土地や民族のような、根ざすものがない。かわりに「文明」は「文化」の中に寄生虫のように根を下ろし、そこから様々なものを吸収して生きている。ただしあらゆる「文化」と上記のP2P型コミュニケーションを大量にこなしている結果として、「文明」は「文化」の最大公約数的なものを身につけている。

「文明」が寄生虫であるメリットは計り知れない。なにしろ実体がないので、寄生している文化から何かを取り入れるときの壁が非常に小さい。それによって、たくさんのものをより少ないコストで取り入れることが出来る。取り入れたものがよいものであれば、相乗効果は計り知れない。取り入れるものが数個程度なら「文化」にもできる。しかし20や30といった爆発的なスケールは「文明」にしかできない。デメリットとしては絶対に100%になることができない。元エントリではそれを以下のように指摘している。

ローカルはロングテールに返還される。グローバル化が進展したとしても、世界各地の文化が全て均一になってしまうわけではもちろんない。

まあ個人的には最後は均質になると思っている。ただし、それは「文明」が「文化」になると言う意味であろう。そもそも何世紀かかるか予想もつかない、我々のあずかり知らぬ話だ。

そんななので、「文明」は絶対に「文化」を破壊し尽くすことはできない。その代わりにあらゆる「文化」の隣人になって他「文化」から学び、あらゆる他「文化」に教える。例えばさっき日本とオランダは距離が遠いと書いた。しかし、両方とも「文明」と近い距離にいる訳だから、文明経由日本発オランダ行は、直通より遙かに距離が近いことになる。まさにワームホールである。欠点は「文明」というフィルタを介したものしか伝えられないことにあるが。

この「文明」と「文化」は、日本における国と地方の関係によく似ている。つまりローカルである各地方があって、その上に我々が日本全国と呼んでいるグローバルがある。江戸時代の藩制度から中央集権に代わっても、日本は完全には均質化しなかった。確かに多数の風習が無くなったりしたが、それでも未だ地方の特色というのは色濃く残っている。方言すら消えていない。もっとも今や日本全国は「文明」から「文化」になったともいえるかもしれない。

ところで、元エントリにかえって

グローバルな文明は、ルールが変わりゆく世界においてはローカルな文化の破壊者ではなく、その存在条件に次第に変わっていく。グローバルな「文明」への参加は、各地域のローカルな「文化」を持続可能なものにするために、どうしても不可欠なことである。どれほどローカルな文化の大切さを説いても、グローバルな文明との関係を整備しなければ、そもそもの存続すらが危うくなるのだ。

ここでいきなり「文明」への参加が「文化」の持続可能条件に飛躍しているのがやや残念と感じた。その理由は一番重要なことだと思うのだが。ただここを理解することはできても、説明するのは難しい。個人的には以下のようなものだと考えているが。

  • 「文明」があまりにも巨大化したから、かつては可能だった「文化」が「文明」に参加しないという選択肢がもう消えている。
  • 「文化」と「文明」が互恵的な交流を続けた結果、もうすでに大半の「文化」が「文明」なしに生きられなくなった。つまり共生状態に入ったから。例えば日本の「地方文化」の殆どはもはや独立不可能である。
  • 「文明」の力が圧倒的になった結果、「文明」の恩恵を受けられない「文化」は圧倒的不利となった。

 

最後にやっとここで「英語」という単語が出てくるのだが、それほど「文明」が強力で重要だからこそ、我々日本「文化」は彼らと対話して正しい関係を築かなければならないし、いまそれが毀損しているなら最優先で修復しなければならない。

そしてさしあたって何が問題かというと、まず「国際共通語の話者が足りていません」ということである。「英語をしゃべれるようになる前に日本人としての中身を」と言われるが、気に病むことはない。必要なのは「文明」型の多文化との交流であり、中身だったらその交流を通じて身につけることができる。

日本「文化」と「文明」の対話インターフェースを改めて確立しなければならない。それが日本人が英語をしゃべらなければいけない理由である。だれでも英語がしゃべれるべき、とは思わない。しかしまとまった人数の英語話者が必要である。

日本に新しい議会を作れ ― 議員数10万人の「市民院」

By L.star, 2010 年 7 月 14 日

前回の

全議席比例代表制度にする前に日本の政党が変わらなければいけないこと

にて、自民党の河野太郎氏の民主主義の権利と義務と言うエントリを紹介したが、そのはてブを見ると「被選挙権行使はハードル高すぎる」という意見が多いのに驚きつつ、確かに一理あると思った。

統計局の資料(PDF)によると地方議員総数は30000超、国会議員に至っては1000以下な訳で、実際候補者になるにもそうとう厳しい試練である。ましてやノウハウや地盤のことを考えると、二世でもない限りほぼ無理か、と思ってしまう。候補者が居ないなら自分が立候補、というのは民主主義の正しい有り様だが、それを実践する制度に欠けていないか、と言う話になってします。

じゃあ逆転の発想をしようではないか。世の中では議員削減が叫ばれているが、思い切って極端に増やしてしまえばいい。例えば国会議員10万人になれば、競争率は1/1000まで上がり、ちょっと優秀な個人で手の届く範囲になってくる。むろんそうなると今までのように高給取りであるわけにも行かないから超薄給になるが、それはそれで雇用対策と言っていいだろう。

まあなんで10万人とか言い出したのかというと、昔

10万人規模の政治家を擁するインターネット国会を実現する – 狐の王国.

を読み、対立エントリの

ネット衆愚制よりネット独裁者

を書いたことがあるからなのだ。ここではL.starは「10万人の国会によるほぼ直接民主制など衆愚制の極み」と批判しているわけだが、しかし多数が参加するメリットも多数あるのも確かだ。例えばそれにより経験を積める層があり、自分を売り出せる可能性もあるわけだ。

今回は大元のアイデアを継承しつつ、しかしそのような衆愚制に陥るのを避けつつも、政治に参加して意見する、と言う形をどう作るかと言うことを考えてみた。すなわち今の政治システムはそのままに、さらに「市民院」を創設して市民の政治参加を促すことだ。

いろいろ決めなければいけないことは多いが、とりあえず簡単に考えてみた通りをあげておく。

  • 市民院は、衆議院および参議院の下部組織である。
  • 市民院の定員は10万人とする。
  • 市民院議員の任期は1年とし、再選を妨げない。
  • 市民院には、議長(1名)、モデレータ(100名)そのほか必要に応じた役職を設ける。全ての役職は市民院議員による互選とし、再選を妨げない。
  • 市民院議員は、衆議院および参議院議会等にオンラインで参加し、オンラインにて議論する。この議論には、市民院議員の他、内閣や議会等が必要と認めたものが加わることができる。
  • 市民院モデレータは、議論の方向性を整理したり、議論のうち重要と思われるものについて抽出したりすることを責務とする。抽出されたものは議会等のディスプレイに表示されるなどして、議員が閲覧できる状態に置かれる。
  • 市民院は、衆議院等の求めに応じて、特別の議題に対してオンラインの無記名投票を行う。結果はやはり即時閲覧可能状態となる。
  • 市民院の議決は、いかなる法的効力も持たない。
  • 市民院議員は、招集され参加した時間に応じた給与を受け取る。

まあ要するにネットのぐだぐたをそのまま政治に格上げするようなものなのである。しかし、きっちり国会を見て、資料を読んだり自分なりに意見を出したりするだけでも、参加している感は全然違うだろうし、実際の政治に対する理解も深まるだろう。その中でも優秀な発言をした人や、役職の経験を積んだ人は、十分経験があるといえ、上のレベルの政治家になる道も開けるだろう。

これは単なるおもちゃだろう、と言う意見もあるかもしれないが、L.starとしてはこれは共和制ローマにおける市民集会に近いものだと考えている。10万人という多数は大衆の縮図である。ここでは特に選挙方法や選出方法を示さなかったが、極端な話ランダム抽出で問題ないとすら考えている。

重要なのは、議決にいかなる法的効力もない、ということである。議会や内閣は、愚かな大衆の言うことに従う必要はない。しかし声には耳を傾ける必要はああるだろう。だから、議会や内閣は市民院を通じてより正確な民衆の考えを知ることが出来るし、市民院に正しく理解してもらうことで民衆との橋渡しにもなるかもしれないと考えている。

一番恐ろしいのは、議会が市民院の議決がそのまま通ってしまうようなスルー組織に成り下がってしまうことだ。むしろ市民院が議会の議決の追認機関になるぐらいでないといけない。とはいえ、法案の可決否決などは駄目だとしても、役職の選任とう、何らかの議決権があっても良いと考えている。

一方で課題の山積み度は半端ではない。簡単にあげるだけでもこれだけある。

  • 10万人もの多数のコミュニケーションをどうやって取るのか。動画配信はすでに可能だが、意見を集約することが可能なのか。2chに当てはめれば、一人一発言でも100スレ消費する勢い。
    twitterにしても、一時間に一人1tweetで28tweet/秒で、これは現在のtwitterのトラフィックの3%近い。誰かの失言に1秒に5%の人が反応すれば5000tweet/秒、デンマーク戦のゴールも越える化け物っぷりである。
  • 衆議院等とのコミュニケーションをいかにして行うか。
  • 市民院が衆愚組織に堕する可能性は高いが、本当に国政に影響しないか。あるいは衆愚に陥りにくくする対策はできないのか。
  • 市民院議員からのキャリアパスを本当に作ることはできるか。
  • 国政に導入するのは良いとして、地方にはどうするか。
  • どうやって投票するか。議決権がない、あるいは限定的な故、各種議会選挙ほどの厳密性を持たないオンライン投票で良いのではないかとも考えているが、組織票で埋め尽くされたりしないのか。
  • 時間管理、報酬等をどうするか。

最後に自分がそれをやりたいか、と言われると日本にいるならイエスと答えるだろうが、個人的にはむしろそれだけのコミュニケーションを成り立たせるアプリケーションやそのバックエンドを構築する方にずっと興味がある。そういう部分L.starは、残念ながら骨の髄まで技術者らしい。

全議席比例代表制度にする前に日本の政党が変わらなければいけないこと

By L.star, 2010 年 7 月 13 日

週末はやや体調を崩していたが、頑張って夜のオランダ=スペイン戦を見ていた。勝ったスペインにはおめでとうと言いたいが、しかし・・・

確かに荒れた試合だったが、イエローカード総計14枚というのはいくら何でも多すぎるように思えたし、所々誤審も(しかも重要な場面で)あった。実際スペインは守備陣に隙がない上攻撃も果敢と、確かに強かったし勝つのは順当だろう。しかし素人目にあまり後味の良いものではなかった。

後味が悪いといえば先週末の参議院選挙。twitterで「選挙も後味悪し…」とつぶやかれていったいどんな、と思っていろいろデータをあさってみたが、確かにどうにも解釈しがたい。得票数で勝る民主を一人区でことごとく破るなど圧倒した自民が大勝、と言う結果はいったい何と読めばいいのだろうか。

もちろん今回の獲得議席は決定で、そこに疑義を差し挟む余地はない。違憲だと裁判を起こすことはもちろん可能だが、どうせやり直しにはならない。そもそもそういう戦略が有利になるような制度で投票するのに合意したのは今までの議員で、しかもそれを選んだのは国民なのであるからして、結果に文句を言う余地などない。

問題はやはり、5倍にも達する一票の格差だろう、と言う分析がなされている。それに合わせた戦術を駆使した自民党が勝ったと言うことなのだろうが。選挙戦術の善し悪しが一人一人の票に勝るというなら、いったい何のために投票すればいいのだろうか、と考えされられる。

そんなこんなだからなのだろうか、今回の結果というか過程と言うかには思うところもあった人が多いらしく、選挙制度改革を求める声がブログ界には出てきていたようだ。今は自民党一党独裁体制の昔とはずいぶん勢力も変わってしまっている。次はもっとより世相を反映しやすく、国民にとって受け入れやすい妥協案を探してくれるように、というのはあるだろう。こういった選挙制度改革はそれ自体が国家政党の枠組みを決めてしまうので簡単にこれと決めるわけにも行かない。

どれもBLOGOS仲間(もっとも仲間といってもL.starは末席を汚しているに過ぎないが)になるが、上脇先生の

やはり民意を歪曲する選挙区選挙は廃止するしかない!

が数字がまとまっていて面白い。dankogai氏も

民主党が負けた本当の理由

にて同様の指摘をしている。面白いのは二人とも参議院にて全議席比例代表を、という主張をしている点だ。逆にアメリカ上院や国連議会を範に「格差上等、もっと地方色を高めろ!」という意見も木走まさみず氏の

参議院は「一票の格差」是正を思い切って放棄してみてはいかが

にてみられる。いずれにしても衆参で大きく違う制度を、という点では一致している。

ところで、個人的に以前

オランダの総選挙に学んでみる

で、実際に完全比例代表制のオランダ下院総選挙について学んだ。その中のポイントで比例代表は穏健な多党制に収束しやすい、というのがある。その場合多政党による連立が組まれ、与党内の協議により現実的な落としどころが生まれるということだ。

ここでは仮に今回の結果だけをベースに与党組閣を考えるとして、上脇先生の上記のブログから「各政党の選挙区・比例代表選挙での合計当選者数、比例代表選挙の得票率および比例配分試算議席数」という試算値をお借りして、実際に多政党連立がどのような形になるか検証してみよう。まずはわかりやすいように試算値を抜き出して表にした。

政党名 試算議席数
民主党 38
自民党 29
公明党 16
みんなの党 16
共産党
社民党
たちあがれ日本
国民新党
新党改革
諸派
幸福実現党

これで61議席以上を確保できる組み合わせというと以下のようなものが考えられるわけだ。

  • 民主+みんな+公明(70)
  • 民主+自民(67議席)
  • 民主+みんなor公明+共産(61)
  • 民主+みんなor公明+社民+その他1(61,2)
  • 自民+公明+みんな(61)
  • 自民+みんなor公明+共産+社民+その他2(61,2)

こう並べてみると、かなりあり得ない組み合わせが多く見られるというか、今までの経緯等を考えると、とんでもないと言ったほうがいいだろう。最も鳩山内閣に近い4番目はいまさらないだろう。共産党が与党というのも想像がつかない。そしてみんなの党が民主とは組まない、と言うのを真に受けるなら、2番目の大連立か。あるいはまだまともに見えるのは5番目だが、第一党が野党というのからして普通あり得ない。

ここでいう政権交渉というのは、あらゆる政策案や行動指針をぶちまけて、お互いに「ここはOK」「ここは妥協できない」といったことをいちいち検討するのである。その交渉の中で当然マニフェストにあったことをあきらめないといけないことだって出てくるわけだ。別にオランダにしたところで連立交渉は大変なわけで、選挙から一ヶ月まだ決まっていない。

全議席比例代表の問題というのは、はたして圧倒的な第一党があるのが普通だった日本の政党に、今までのわだかまりと政策の差を乗り越えて政権を樹立するという根気強い行為はできるのだろうか、という点につきる。それができるように変わらなければ、より一層の迷走の度合いを強めるだけである。

又そうなったときには、各政党が、より個性的な、わざわざ選ぶ価値のある特色を持った形に変わらなければならない。どれも同じようでは、結局民衆に見透かされるだろう。もっとも多党制を受け入れられるようになるなら、移ろいやすい多数に働きかけるより熱心な少数をがっちり味方につける方がずっと効率的になるため、そのような流れは加速するだろう。

個人的には、こういう完全比例代表を行うなら、それがより国民の一票を反映するが故に上位にある衆議院にすべきだろう。これにより日本は二大政党制からおさらばすることになるだろうが、与党間の合意による日本全体の合意形成に役立つだろうと考える。他方参議院は完全選挙区(ただし格差はある程度是正する必要あり)として、国民全体の意見が地方の意見に優越する印にすべきである。オランダの二院制に近い形(下院は比例代表、上院が地方議会による選出)と非常に似ているが、若干影響は受けている。

ちなみにこのような制度になった時、空白地帯になっているのはより右翼的な、例えばネットの保守層をカバーするような政党である。今のところ消極的ながら自民党やみんなの党支持となっている層だが、こういったところにマッチする政党があれば現状の不満層をかなり吸収できるだろう。麻生元総理とかがトップになってやらないだろうか?彼ならネット保守層の信望も厚いし、彼らの要望を現実的な政策に落とし込む能力にも長けていると思うのだが。

まあそういう与太話はさておき、他にもいろいろやることはあるだろう。ネット選挙の件もある。想像してごらん?日曜日以外に選挙があることを。では、日曜日以外に選挙を行うことでの会社員フレンドリーなあり方を検討すればどうか、と言う話もした。どの党のマニフェストにも熱心には書かれてなかったようだが、こういった議員と選挙システムと国民との垣根をなくすような選挙改革は是非どんどんやっていただきたいと思うのである。

 

P.S.

今回の選挙後の記事をいろいろ見ていて一番ほっとしたのは自民党の河野太郎氏の民主主義の権利と義務と言うエントリ。現実認識も優れているし、必要な適度な危機感もある。そして民主主義についてもよく分かっている。氏の言う「あたりまえの国会」ができるようになれば、国会は今の迷走から一歩前進できるだろう。このようなきちんとした政治家がいるなら、日本の政治もまだまだ捨てたものじゃない。

日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題

By L.star, 2010 年 7 月 7 日

池田信夫氏が文明の生態史観を紹介していた。農耕民族と騎馬民族の関係が文明の形態に影響を及ぼした、と言う話である。

マクニールは「世界史」で同様の問題について深い考察を書いている。遊牧民と農耕民の力関係がテクノロジー(例えば古代戦車、鉄器、鐙、銃などに)によって変化する、などである。例えば戦車のような機動力に勝るが高度な技術が必要な武器が優勢な時代が統率力に勝る遊牧民が強く、文明国家があっさりと滅ぼされる。逆に鉄器や銃のような大量配備が容易で、扱いが簡単な時代は農耕民が優位で、巨大な帝国が勃興する要因になる。

もちろんこのような遊牧民と農耕民というパーツをそのまま21世紀に持ってきて、正しく考察できるかというと、なにしろいろんな要素が変わりすぎてしまっているので無理である。しかし、その骨格は十分応用できるだろう。

つまり、優勢な武器と、それにあった習慣を持った社会は、世界で優位を確保するのである。今現在「武器」の地位を確保しているのは産業だろうが、それに対応する社会習慣は3種類あるかと思う。

  • 優秀な少数(数人から数十人)のスタンドプレー物事を成し遂げる個人主義的なもの
  • 高品位な中規模(数十人から数百人)の連携チームプレーで物事を成し遂げる集団的なもの
  • 品質はさておき数的優位を確保、明文化されたルールで制御していく組織戦

こう考えれば殆どの人が「日本は2番目の典型例」と考えるだろう。池田氏も以下のように書いている。

他方、社会が自生的な生態系を形成しているため、地域や企業などの中間集団のまとまりが強い。

ところで米国シリコンバレーは明確に1番目だろう。彼らの企業規模は基本的に少数精鋭で、Googleなどは今や万単位の社員を抱えるが、5000人の時ですら殆どのプロジェクトは少数で構成されていたという。このような集団ではもちろん巨大なものを成し遂げることができないが、小さな突飛もないアイデアで小さいが突拍子もないアイデアで大逆転を狙うには適している。

そして実際ソフトウェア開発というのは小さなものである。巨大なシステムでは例外もあるだろうが、プロジェクトでのコアなエンジニアはせいぜい10人程度で、それでも実際に凄いものができあがる。極端な話だと、数千人月つぎ込んで作ったものより、数人で気合いを入れて作る方がよほどましなことがある。それがソフトウェアというものだ。

この2つを掛け合わせると、シリコンバレーモデルは、ソフトウェアシステム開発という小数人数向け武器と、少数の個人の組み合わせで起こっているムーブメントである、といえるだろう。日本はもっと大きい集団を得意とするから、日本版シリコンバレーは絶対に根付かない。

逆に言うと、少数精鋭が似合うソフトウェア開発で日本が優位に立てないのも当然だろう。大企業は集団モデルを明確に持っていて、それしか提供できない。他方少数精鋭というソフトウェア開発の特性に合わせた中小ソフトハウスは、諸事情により有効な規模まで大きくなることができない。その点は昔社員20人から先に進めない小規模ソフトハウスでも考察した。大きなジレンマを抱えている。

もちろんこれはマクロ視点なので、ミクロに見ると間違いだ。日本にも優秀な少数というのはいて、彼らも成功する。しかしシリコンバレーのような、閾値を超えた成功を得るには至っていない。シリコンバレー並みの個人の扱いを社会が覚えなければこれからも無理だろう。

むしろ日本に必要なのは、少数のスタートアップの補佐より、中規模への発展を補佐する仕組み、そしてうまくそのグループを効率的に編成して成果を上げる仕組みが必要では無かろうか。劣っている部分を強化したり、弊害を除去するのはもちろん必要で、例えば日本版シリコンバレーに必要な事情の整備であるとか、組織戦のノウハウの整備であるとかも重要である。しかし、せっかくの長所が見えているのだから、同時にそれを使わない手はない。

それに、ソフトウェア開発にしたところでいつも数人が最適ではない。残念ながらゲーム業界をよく知っているとはいえないので、推測に過ぎないが、日本の大作ゲームの一部が世界でも評価されるのは、大作の開発には大きなチームが必要になることと一定の関係があるかもしれない。もっとも多数の世のデスマーチの噂を聞くかぎり、単純にソフトウェア業界は力不足だから、ともいえそうである。

他方中国の昨今の産業政策は3番目のように思われる。欧州はと言うと難しいが、私見では彼らは3番目である。ルールを明文化して制御するのは日本に比べてめっぽう強い。もちろん日本でも、大企業はこのような組織戦のノウハウをある程度持っている。しかし単なる組織力は、今世界ではそれほど重視されていないようである。

もちろん、米国の少数精鋭が指示し、中国の人海戦術がそれを実行するというタッグは、あくまでモデルとしては完璧であるように見える。世界と日本が戦うということは、そういう新しい傾向とも戦うことである。

そのために日本の弱点を強化するか、あるいは長所にあった武器を考案するか、あるいはここは一手休んで傾向が日本に有利になるのを待つのか。多数の答えがあり、多くが正解になり得る。ここではその元になる仮説を提示するだけで、それ以上は随時やっていくなりしたい。ただ個人的には、日本の弱点を克服する最良の方法とは日本の長所であり、それは表裏一体と考えている。日本は中間集団になることによる弊害があるなら、その弊害を破るのも中間集団のもつ力ではないかと思う。

日本人が英語をしゃべらなくて済む方法

By L.star, 2010 年 7 月 5 日

なんかいろいろ書きたいネタがたまっているがなかなか書く時間がとれなかったりして難しかったりする。オランダは今年はずいぶん暑く(といっても日本の夏に比べれば雑魚なはずなのだが)疲れているのもあるのだが。

ところで、今回は日本人はどの程度英語をしゃべれるべきかからのアップデートである。ここではLilacさんやelm200さんにならって、日本人のかなりがレベル1ないしは2の、いわゆるリングワ・フランカとしての英語をしゃべるようになるべきだ、という主張をしているわけだ。もちろんそれには合理的なものも感情的なものも含めて、いろいろ反論がある。

しかし、リングワ・フランカなどという単語を出すからには、ここでいう「英語」はたまたま世界共通語になっているのが英語だから英語というのであって、それ以上でも以下でもない。世界標準が英語からタガログ語に移行すれば「日本人はタガログ語をしゃべるべきだ」という論調になるだろう。

そして「日本語がリングワ・フランカになるなら、日本人は外国語など覚える必要がない」という論が出てくるのも当然だろう。これは全くその通りだ。そうなると世のエリートビジネスマンは日本語をしゃべるようになり、彼らの不利な立場で、我々が堂々と有利なことができるようになる。全く素晴らしい究極の解決策である。

ただ、これを実現するのは相当大変だ。まず、経済的にるいは文化的に圧倒的な影響力を日本語圏(日本国が、ではない)が持ち、英語圏を越えなければならない。「これからは日本語」と世界のビジネスマンに理解され、日本語の教育システムが世界中に整備されて、日本語のレベル1やレベル2の話者が、英語以上に世界中に増えるまで影響力を維持しなければならない。日本は1980年代から一時的に世界一の経済大国になって、しかも未だに上位を維持している。それでも英語が確固たる世界の中心と言うことは、日本語を世界標準にするには、その程度の偉業では全く足りないと言うことだ。

「日本」”JAPAN”から”NIPPON”へ・・・経済は停滞しても文化浸透は止めないでも書いたことである。しかしもっと高い目標と言っていいだろう。魅力ある「日本文化」が世界のスタンダードになれば、同時に日本語も次のリングワ・フランカになる。そのためには繰り返すが、魅力ある日本を世界中の人にもっと理解してもらう必要がある。理解してもらうためには日本の中で日本語をしゃべって日本人にビジネスをしてはいけない。世界の中で世界の言葉をしゃべって世界中の人と対面しなければならない。

皮肉なことに、いま世界中の人との対話を最も効率的に行う方法とは、リングワ・フランカとしての英語をしゃべることなのだ。JMMのfrom 911/USAレポート / 冷泉 彰彦の最新刊(メルマガ本体は発行済みだがバックナンバーは未公開)でも言われていたのだが、結局世界全体への話しかけは、現状英語でするしかないのだ。

いや英語はあくまで1スキルに過ぎなく、中身の方がずっと重要だと言われるだろう。そのようなコメントも前回のエントリでいただいた。しかしL.starの日本の外の経験からすると、日本文化は大変優れていて、欧州人がそこから学ぶべきことは本当にたくさんある。他方日本からのアウトプットはあまりにも少ない。

確かに英語など1スキルに過ぎない。でも、それがボトルネックになっている場合だけは例外で、それ以外の全てのスキルを合わせたより重要である。もちろん100%ではないだろうが、今重要なキーワードであることは間違いないだろう、当然、今後コミュニケーションが増えていくことでボトルネックは当然移動して、それとともに英語の重要性は薄れる。英語をしゃべれるようになるのが今必要なのと同様に、英語を重要視しなくするタイミングも重要である。

ちなみに外国語をしゃべらなくて済む方法はもう一つある。それは「完全な鎖国」である。全く正反対に見えるが、世界の境界と文化圏の境界を一致させる、と言う点で完全に同じである。ただ広いかせまいか、という重要な点が違うだけで。

事業逆仕分け構想 ― やるべきことも公開の場で議論を

By L.star, 2010 年 6 月 30 日

ここ最近世を賑わせていたのは「はやぶさ」帰還とサッカー日本代表の大活躍だ。サッカー代表の方は残念ながら決勝トーナメント初勝利はならなかったが、海外でのワールドカップ初勝利を含め、十二分の大活躍だったと思う。両者の関係者に、おめでとうそしてありがとう、と申し上げたい。

ただ同時に気になるのがそれらの成果が大変誇らしいものであるのは間違いないが、それ故に「はやぶさ2に予算を」とか「岡田監督続投を」とかという意見が散見されることである。前回の成果が誇るべきものであったことと、次回も同じことをすべきか、というのは全く別で、議論すべきは「次回の行動として合理的か」かどうかである。単純なポピュリズムでこういうことを決めるということは、してはならないことである。

岡田監督は辞任されると言うことだし、どうせL.star自体もにわかファンに過ぎないので偉そうなことをいえたものではない。一方一応理系出身でもあるからそれなりも興味もあるはやぶさ2は、あくまで次回の行動の合理性を考えるだけでも、実際やるに値すると思っている。しかし松浦氏のはやぶさ2にむけて:最後の障壁は身内にあり…かとか月で公共工事をしたいのかあたりを見ていると怪しいようである。しかもそれが俗に言われる「民主党が」「自民党が」ではなく、組織内の問題だということだが、それが事実なら本当に悲しい限りである。

ただ、こういう巨大な組織ならではの弊害というのは実際よくある話で、いろいろと耳にする。L.starは元々一匹狼な気質もあって、大企業や官僚組織をあまり信用していない。個人個人はみんな有能で、しかもいい人だというのはよく知っている。しかしそれが組織になると、評価はいきなりどん底に落ちる。組織のしがらみが誰も望まぬ社内闘争を生む。素晴らしいアイデアは幾多もあって、優秀なスタッフがたくさんいるのに、社内政治の結果出てくるものは目も覆わぬばかりの無残な代物。

そういうのをいかに継続的に取り除くか、というのをむかしからつらつらと考えているのだが、今日はそのうちの一つのアイデアを記しておきたい。題して「事業逆仕分け」である。

民主党の事業仕分けや自民党の無駄撲滅プロジェクトでは、無駄なプロジェクトを探し出してそれをつぶす、と言う形で行政の健全化をさせようとしている。特に事業仕分けはそれを表の場所で行うことで議論を喚起した、と言うところが大きい。結果として幾多のデスマーチや惰性プロジェクトに幕を下ろせたと言うだけでも、一定の成果があったと思っている。しかし、削るだけでは本当の健全化は達成できない。新たに加える方も必要である。

官僚個人個人は優秀なのだから、何人かは素晴らしいアイデアも持っているはずだ。それを宇いかに組織のなかにうもれさせないようにするかが重要である。逆仕分けでは、そのアイデアは公衆の面前でいきなり新しいプロジェクトのプレゼンをし、外部のお墨付きをもって組織に立ち向かう、というシナリオを作るわけである。

  • 提案者は官僚。組織長等を通さずに「応募」できる。提案の乱発を避けるためにも、一定人数以上の連名が望ましいかもしれない。
  • 提案者は逆仕分け人の前で、そのプロジェクトについてプレゼンする。その際企業や外部ジャーナリストなどの協力があっても良いだろう。
  • 逆仕分け人は、それを聞いて質疑応答の後判定を下す。「必要なし」「検討の価値あり」「実施の価値あり」など

もちろん逆仕分け人の判定はあくまで参考に過ぎない。だから予算を組む「義務」はない。しかしそれが世に出て好評を博した後「やれない」と官僚組織はひっくり返せるだろうか。ここでは正義感のある官僚が自分の信じるものを売り込むような形を想定しているが、もちろん組織がバックアップするパターンもありである。そのときは財務官僚や政治家からの声を封じる役に立つ。

このような仕組みがあれば、組織内の問題(本当にあれば、だが)をバイパスして、「はやぶさ2」を「逆仕分け」し、よりスムーズに予算をつけてあげられる、ということはないだろうか。

この施策は単純だが、「組織の非効率をすり抜けて良い提案を実施に結びつけられる」というこの上ないメリットがある。いや提案できるかどうかなら、官僚個人の名人芸でできる。例えば「外圧」を巧妙に使うことで自分の意見をうまく通す、ということは日本ではよくあることだ。ただ一つ指摘しておきたいのは、逆仕分けが目指すのはそのシステム化である。提案実施のために必要なスキルを名人芸から、アイデア立案とプレゼン能力という一般的なスキルにおき換えるのが最大の目的である、ということだ。

ただあくまでこれはまだ素案レベルのものでしかなく、実施にあたって検討すべき問題を抱えている。とりあえず考えられることを以下に挙げておく。

  • そもそも提案者が現れるか。外部の力を使ってプロジェクトを実施させよう、などというのは組織の裏切りに等しい行為である。正義感にあふれていて不満を持っている官僚はそれでもやるかもしれないが、そのあとどのような扱いを受けるのか。
  • 組織が判定を無視する、あるいは受諾したふりをしても実際は何もしないという選択肢についてはどうするか。
  • 単なる官僚の予算取りのためのシステムに堕してしまわないか。出てくるプロジェクト自体が今までと代わり映えしないようなもので、結局仕分けと何が違うのか、ということになりはしないか。
  • 提案のために企業などとのやりとりが増えるだろうが、癒着などはどうなるか。企業の自社システム売り込みの道具にされないか。
  • 何を持って素晴らしい提案に報いるか。責任ある地位と金一封ぐらいしかなさそうだが。
  • 公開して世論を味方につけるという行為がポピュリズムじゃないのか。耳障りの良い施策ばかりがでて、本当の改革にはならないのではないか。

逆仕分けの第一弾はこのエントリで、逆仕分け人は読んでいる皆さんと言うことになるだろうか。さすがに「即実施すべき」とまではいかなくとも「検討の価値あり」と評価される程度には良くできていると思うのだが。是非あなたの逆仕分け結果をお聞かせいただきたい。

日本人はどの程度英語をしゃべれるべきか

By L.star, 2010 年 6 月 22 日

いろいろと個人的に忙しかったりやる気が出なかったりで、一部予定している記事も遅れがちなのだが、気になった記事があったので。

必要なのは「共通語としての英語

英語は普段会社で使っているのもあり、L.starにとっても結構深刻な問題である。実際時々あやしかったり、切り替えに手間取ったりしつつもそれなりに頑張っていて、たいていの欧州人からは「日本人にしてはずいぶんできる」と評価してもらっている。ただその言葉のうちどれだけがお世辞かは知りたくもないが、まあ改良の努力はしている。ちなみに、オランダにいるがうちの部署は英語圏(not米語圏)出身者が多く、彼らのネイティブな「生きた」英語にはさんざん苦労させられる。

で、英語についてのいろんな「どこまでできるべきか」という議論だが、そもそも人によってまちまちなはずである、という基本的なスタンスが抜けてないだろうか。だから人によってどこまで要求されるか、をちゃんとクラス分けして議論すべきではないだろうか。と思ったので、個人的な見識にもとづいてクラス分けしてみた。

レベル1:天気・買い物・道案内など日常的な基本会話ができる

TOEIC900点、とまではいかないだろうが、日本では「ちょっと英語のできる」と見なされるレベル。はっきり言うと、中学校から高校前半で習う英語をきっちり身につければ、ここまで簡単にいく。外国で真剣に生活しない人でもこの程度は身につけられるが、その際に他の言語圏の人たちが苦労して覚えないといけない文法やアルファベットの違いとかがあるが、日本人は実はそういうことに悩まされることはほとんどない。ただ覚えていることに沿ってきちんと訓練するだけでこのレベルには到達できる。

個人的には日本の都市在住者や、外国人がやってくるような観光地在住者の殆どが今後身につける必要があるレベルである、と考えている。そうでなくても、頻繁に海外旅行に行くような人には要求されるだろう。大半のオランダ人は実はこのレベルで、ちょっとレベルの低いところに行くともう通用しない。

レベル2:自分の仕事や専門分野の読み書き会話程度ならこなせる。

L.starが個人的に「インターナショナルビジネス語」(以下長いので国際語とする)と呼ぶ言語が基本的に習得できているレベル。国際企業で話されている英語というのは明らかにネイティブの英語とは違っていて、そこらのスペイン人やイタリア人のちょっと教育レベルの高い人なら話せるような英語のサブセットである。明確な定義など無いが、語彙も少ないし、文法もあまり複雑なものは出てこない。気の利いた表現も必要ない、ごくごく淡々としたものである。

「通じる英語」でいいんですよ

でいうところの「通じる英語」とほぼ共通していると思われるこの言語は、単なる意志コミュニケーションの手段であり、なんら情緒的なものは含まない。コンピューター業界なんかでは、会話はともかくドキュメントの読みとかでこのクラスが要求されるので、案外基礎としてできている人は多い。後はそれを実践して磨くのみだ。

「ビジネス英語」とも呼ばれているのだと思うが、ビジネス英語クラスで学ぶのはもうちょっと丁寧なレベルが高い英語のように思った。そういうのは付加価値であり、やはりレベルの高い英語ができる人は高い職掌につく率も多い。もちろんそれは、そういう勉強をきちんとしている証拠である。

聞いた話だが、欧州のエグゼクティブクラスになるような人は、徹底的な発音矯正をして、BBCで話されるようなきれいな英語(いわゆる標準の英語)を身につけるという。これなど、完全な国際語である。

レベル3:英語で閉じた世界で生活が出来る。

専門知識に限らず、ニュースサイトなどを読んで細かい部分まである程度理解でき、知性の高い人たちと難しい議論ができたりできる程度を指す。「TOEFLできないと話にならない」などと言う主張や、L.starが頑張って目指しているのもこれである。多くの長期海外在住者はこのレベルにあるだろうし、そうでないと相当大変だろう。ジョークに反応できる必要はあると思うが、気の利いたジョークを連発できるようなレベルである必要はない。

ここまで行けば、たとえ日本語訛りであろうとも国際社会ではまず通用する。相当のレベルでもない限り、あるいは英米人でない限り、どうせ相手も訛っているのだ。気にしてはいけない。

レベル4:ネイティブに遜色ない、あるいはそれ以上の英語を流暢に話す。

これ以上の説明は必要ないだろう、死ぬほど英語を勉強してきたから分かる、英語学習の限界の増田が目指して失敗したところである。通常このクラスに行き着く日本人は海外育ちのバイリンガルか、死ぬほど努力したかどちらかだろう。

実は、ぶっちゃけこんなのが必要とされるのは英語圏の国のローカルなところだけである。なぜならそのようなところでは高度な英語スキルと人間としてのレベルの高さが比例すると仮定でき、実際その仮定が信用されるからだ。だからこのレベルは、英国か米国で地元民に混じって活躍したいなら必須である。しかし日本で、あるいは多国籍企業では、ここまでのレベルはオーバーキルである。だから、このようなレベルの必要性についての論説は、例外なく英語圏に住んでいる人から出てくる。

逆に日本語で考えてみると良い。東京のような都市で生活するならたどたどしい日本語を使いつつ生活することも可能だろう。その上で都市生活者は比較的外国人になれているから「あいつは日本語の分からないから馬鹿だ」と仮定することは少ない。しかしこれが田舎に住んでみたらどうだろう。外国人慣れしていない田舎の人たちには、そういう人をうまく扱うのは難しかろう。

だから、ネイティブなみの英語というのは、実は国際社会に対応するためのレベルではない。むしろ英語社会ローカルに溶け込むために必要なレベルなのだ。

さて分けられるとしてこのくらいだろうか。もちろんどのレベルの話者も日本にとって重要であるが、とりわけ観光や文化交流のために必要なレベル1,あるいは基本的なビジネス関係の構築のために必要なレベル2の話者の数を増やすことが急務だろうと思われる。その上は大して必要としない。おおざっぱに言うと、レベル1:2:3:4=1000:100:10:1程度の割合で良いだろうとすら考える。

米国在住経験はないので聞きかじりになるのだが、欧州での英語経験が米国に比べてユニークなのは、実際に英国人によるネイティブ英語と、ドイツ人やフランス人などがしゃべる国際語が入り交じる職場を体験できる確率が高いというのがある。するとどうしても、この2つは別の言語だと気づかざるを得ないのだ。だから、増田の人の文章の以下の部分が全体としてのすれ違いの全てを表しているのではないだろうか。

…いや、何だろうね、どうも最近の「日本人英語ができるようにならんとグローバル化を生き残れない!」って風潮にイラっとくるものがあったので書いてみた。俺に言わせれば、「日本人英語ができないことを前提にして、それを補うシステム設計しないと生き残れない」ということになるね。

問題は以下のように、「英語」という単語をうまく補完すれば自明のはずなのである。

…いや、何だろうね、どうも最近の「日本人は国際語ができるようにならんとグローバル化を生き残れない!」って風潮にイラっとくるものがあったので書いてみた。俺に言わせれば、「日本人はネイティブ英語ができないことを前提にして、それを補うシステム設計しないと生き残れない」ということになるね。

そう、日本人はネイティブ英語ができないことを前提にして、国際語としての英語を使うことに集中しないと駄目だと言うことだ。それは他の人も示しているとおりである。お互いに全く矛盾しない。

英語には2種類ある。一つは英語圏の母語としてのネイティブ英語。もう一つはインターナショナルビジネス語としての英語である。まずはそこを区別するところからはじめてはいかがだろうか。

オランダの総選挙に学んでみる

By L.star, 2010 年 6 月 11 日

オランダでは2月に、連立与党第一党のキリスト教民主アピール(以下CDA)と第二党の労働党(以下PvdA)がアフガニスタンの派兵問題でもめたことが原因でバルケネンデ政権が崩壊した。それを受けて6/9に総選挙があり、第二院の選挙が行われた。どうでもいいが第一院は州議会の投票により任命されるので、このような解散の影響を受けない。

日本では主に政権交代があったこと、そして極右政党であるオランダ自由党(以下PVV)が台頭したことがニュースで取り上げられている。

オランダ総選挙、反イスラム政党が躍進

オランダ:自民と自由党が勢力拡大 イスラム移民に警戒感

オランダ総選挙の結果(1)、極右PVV党が躍進

まあL.starはまだ選挙権はないが、これから住み続けるならばちゃんと勉強しないといけないと思うので、この場を借りてまとめてみた。

まずは実際にどのような結果になったかを表でまとめたい。またオランダの政党は日本人にはなじみが薄いと思うので、Wikipediaよりできるだけ情報をひっぱってきてリンクも張っておく。Wikipediaなので不正確かもしれないことはご容赦をいただきたい。

党名 略称 党首名(年齢) 得票数(前回) 政治
スペクトル
政策面
自由民主国民党 VVD Mark Rutte (43) 31(22) 中道右派 新自由主義
労働党 PvdA Job Cohen (62) 30(33) 中道左派 社会民主主義
自由党 PVV ヘルト・ウィルダース (47) 24(9) 極右 国民保守主義
キリスト教民主アピール CDA ヤン・ペーター・バルケネンデ (54) ※ 21(41) 中道右派 キリスト教民主主義
社会党 SP Jan Marijnissen (58) 15(25) 左派 社会主義
グリーンレフト GL Femke Halsema (44) 10(7) 左派 グリーン・ポリティクス
民主66 D66 Alexander Pechtold (44) 10(3) 中道左派 社会自由主義
キリスト教連合 CU André Rouvoet (48) 5(6) 中道 キリスト教民主主義
動物の党 PvdD Marianne Thieme (37) 2(2) 中道 動物福祉
政治家改革派党 SGP Kees van der Staaij (41) 2(2) 右派 改革派教会

※バルネゲンデ元首相は選挙後辞任を発表し、CDAの新党首にはMaxime Verhagen(53)が選ばれたと言うことである。

次に簡単に個人視点からの総括を試みたいが、ポイントの一つはなんといっても極右で有名なPVVの大躍進である。ウィルダースの反イスラム姿勢は、はっきりいって個人的にはあきれかえるほど。彼が公開した映画「フィトナ」は実は見たのだが、問題点の指摘は正当だと考えるとしても、イスラムに対する憎悪で吐き気がするような代物である。いったいどのような人が新しくPVVの支持層になったのかは気になる。L.starはアムステルダム近郊在住だが、正直全然思い浮かばないし、@TOMOKOamsterdam氏も同様の疑問をつぶやいている

しかしPVV大躍進という目玉はあれど、それ以上にCDAが負けている。政治スペクトルの話だけであれば、実際には人数的に右派左派の移動は少ない。右派政党(VVD,PVV,CDA)の議員合計は76で、前回の72から比べれば、今回ようやく定数150の過半数を取って、若干左よりから若干右よりに移行した、ぐらいである。実際には与党第一党だったCDAが削られた分が、同じ右派のVVDやPVVに吸収された、という感じだろうか。左派内についてもSPで減った分がGLやD66に吸収された感じで増えていない。

トリックはというと、やはりよく言われる「左派は都市層に強く、右派は地方に強い」というこの分断で説明できるようである。Labour was the biggest party in the four main citiesによると、オランダ4大都市(アムステルダム、ロッテルダム、ハーグ、ユトレヒト)では全部PvdAが一番強く(ちなみにコーエン党首は直前までアムステルダム市長だった)、ロッテルダムではPVVが、ほかではVVDが2番手だったということで、都市部では引き続き左派が堅調だったのだろう。

一方特に地方では従来キリスト教徒基盤の強かったCDAが大苦戦し、その分が別の右派勢力に流れた。特にリンブルグ州ではCDA票の減少分がPVVに流れ、得票率25%取ったと言うから地方の不満を吸収した結果だろうと考えられる。(@portfolio_news氏のツイート

考えるとアムステルダムはもともとリベラルで左翼的であり、右翼の台頭を感じられない都市ということなのかもしれない。実際2004年にイスラム過激派による暗殺事件があったことを考えるとこれは奇跡的なぐらいで、当時のコーエン市長=現PvdA党首の能力には驚くばかりである。そしてこれが住んでいるのがロッテルダムなら、又違う感想になったのかもしれない。

さてその後であるが、

オランダ総選挙の結果(2)、連立政権の行方は?

でも解説されているが、VVDの党首ルッテ氏中心に連立内閣が組閣される。が、なにしろどの党も定数の25%(37.5)すら取っていないため、最低でも3党の連立になることになり、交渉はこれからである。

PvdAがPVVとの連立を拒否している。まあ移民問題のあまりの違いを考えると当然のことだろう。そのため、連立の可能性としては6通りになる。おおざっぱにその組み合わせを分類すると

  • PvdAとの左右リベラル政権+D66,GL,SPなど
  • PvdA、CDAの元与党たちと
  • CDAとの中道右派政権+D66,GL,SPなど
  • CDA+PVVで右派

の4つである。個人的には一番上を期待したいところだが。組閣のための作業は

VVD wint na nek-aan-nekrace met PvdA

によると(L.starの拙いオランダ語読解力が正しければ)7/1には完了させる予定で望むようである

ところで、このようにみてみると、本当に日本とは異なった方法で政治をしているのだな、ということを感じざるを得ない。まずわざわざ表に党首の年齢を記載したが、見て分かるとおりみな若い。コーエンこそ60代だが、平均はおそらく40代、そのうえ30代の党首まで居る。ひるがえって日本の党首はどう見ても最低50代。若いということはもちろん善し悪しだが。

もう一つはなにしろ政党の規模と数、その多彩さである。これには歴史的な経緯もあるが、なにより政治システム自体の差が大きいことがあげられる。しかし、今の日本の政治に「選挙してもなにも変わらない」と閉塞感を抱く人にはオランダの政党のほうが魅力的に映りはしないだろうか。なにしろ自分の意志をずっと強く示すことができる。もっとも、連立過程で第一党が過激な政策を主張していても、実際は薄められるため、それほど強く意思表示できるわけでもない。

無論、このような政治システム変更は大規模で、場合によっては憲法問題にもなり得る。そもそも政党を切り刻んで小さくする命令を出すことなど誰にもできない。日本にそのまま適用するのは全く不可能と言っていいだろう。もしも日本がオランダのような穏健な多党制になるなら、それは自民党と民主党の両方が崩壊して、大量に新党ができたあとに自然発生的にということになるだろうか。それはそれで避けたいシナリオである。

まあとりあえず、「これを真似れば日本は良くなる!」のような凄いものをオランダの選挙に見いだすことはいまのところできなかった。おそらくないだろう。しかし、民主主義政党政治、と言う点で分かったつもりになっても、実際各国のシステムはずいぶん異なっているなあ、と思う次第である。

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