大切なのは文明的であり続けること

By L.star, 2010 年 8 月 30 日

夏期の旅行に行っていたりその後で体調を崩したりでずいぶんブログともご無沙汰になってしまったが、そんな間に「文明」と「文化」に関する非常に興味深いコメント(英語)をもらったりしてけっこういろいろと考える羽目になってしまった。自分の考えている概念ををうまく言い表す言葉がない、というのは実に難しい。ゲマインシャフトとゲセルシャフトが一番近いのではないかと考えはじめたが、まだまた考察の余地がありそうだ。

そんな「文明」と「文化」のありかたを考えるひとつのケースとして、今日は唐突にヴェネツィアの話をしたい。美しい景観と、運河にゴンドラで有名なあのヴェネツィアだ。2年前の謝肉祭のシーズンに訪れたが、もちろん大変印象深い町で、堪能させていただいた。

しかし、あれほどまでに「開発され尽くした」と感じたところは未だ無い。余すところ無く家が建てられ、路地は細く入り組んでいて車が入る余地はない。物資搬入は手押し車で行われている。水の都、というからには水運は発展している。しかしカナル・グランデには水上バスがあるが、それ以外の運河はきわめて細い。あれを通るにあたり、ゴンドラ以上の船はないだろう。モーターボートもあまり役立つとは思えない。

ゴンドラと手押し車、それがヴェネツィアにおける最高の物流インフラである。別にそれが風流だからそうしているのではなかった。大幅な改革を施して、車やモーターボートを受け入れられるようにするのは不可能だろう。もちろんすでに観光スポットとしての多大な地位を確立しているのでその必要はないが。

特筆すべきは、このような状況は、「文明」から逃げた結果発生したわけではなく、むしろ「文明」を突き詰めた結果袋小路に陥ってしまったことだ。もちろん同様のケースは歴史上いくらでもあるだろうが、ただその限界点を「見て分かる」ことができたことが大変興味深かったところである。それが起こるのは何故か、というのはケースバイケースであろうが、現状に最適化し続けることにより変化に対応するコストが高くなってしまうからというのは挙げて良いと思われる。

ところで、一般に「~のベニス」というと運河のきれいな町のことを指し、日本でも柳川などがあげられる。しかし、同様の視点で一番似ているな、と思ったのは東京だ。環七から246へと、渋滞回避のために世田谷区の狭い路地を通って泣きを見たことがある。あそこには早く東京外環が通ってほしいと思うが、そういう再開発も難しそうで。そういうところも似通っている。

東京も、いや日本もまた、世界に類を見ない「文明」である。あの品格に対抗できるのは、ヨーロッパではパリとロンドンぐらいだろうと個人的に思っているし、世界的に見てももちろん上位である。しかし、それは必ずしも今後も「文明」でありつづけることを保証しない。むしろ、高度化していけばしていくほど、変化に対応できなくなる危険と隣り合わせである。そして、今分明であることを降りてしまったら、ヴェネツィアのように袋小路になってしまうのではないか、と言う危機感はある。

近代日本はかつて幕末、戦後と少なくとも2回、「文明」であり続けるための躍進を成し遂げた。それはそれで凄いことだともちろん誇って良い。しかし今目の前にある危機に対して、もう一度できるだろうか。「文明」であるかどうかよりも、「文明」であり続けられるかどうかが問われているのではないだろうか。

グローバルが先か、ローカルが先か

By L.star, 2010 年 8 月 10 日

@Sophie525さんから日本への移民は2010年時点では時期尚早で反応をいただいているが、その続編の日本が移民を受け入れられるようになるための条件と提案と併せて読んでいて、どうにも違和感がぬぐえなかった。基本的なことは殆ど同意がとれていて、内容にも異論がないというのに。たとえばここ。

僕は日本が移民を受け入れられる体制になるには、少なくとも以下の条件が満たされる必要があると考えています。
人生で1年以上外国で過ごしたことがある日本人が過半数になること

簡単に言うと「そんなことができるようになるなら、別に移民をわざわざ受け入れようという必要はないよね」と言いたくなるのである。個人的には過半数ではなく20%で十分だろうと思うが、数の問題とは思えない。Togetter – 「移民に賛成する二人が異なる視点から意見を交わす」を見ても同じ感想である。

考え抜いた結果、これは「目的と手段が逆なのだ」と言うことに気付いた。L.starは移民は手段だと考えている。元々達成すべきグローバル化と言う目的があって、その目的のための過程の中の(とても有望な)選択肢の一つと考えている。@Sophie525の論法は実は逆である。移民という目的があって、それを実現するためにはグローバル化の達成と言う手段を使いましょう、というものである。

違和感の正体はここで、例えばブレインストーミング的に「東京タワーに振りかけると日本をグローバル化する薬」という怪しいアイテムを仮定してみよう。Sophie525氏は「これを使えば移民を受け入れられます」と言うだろう。L.starは「これがあるなら移民など必要ない」という。

これはつまり「グローバル対応が先か、ローカル強化が先か」という、卵と鶏問題の亜流である。ここがかなり根の深い問題で、多くの対立を引き起こしている。実際には、「グローバルもローカルも強い日本」に反対している人は多くない(スーパーペシミストを中心に少なくもないのは泣ける)のだから差異が発生するのは、今の日本の弱さがどっちから来ているか、と言う分析結果にある。

グローバルもローカルも現在の組織を引っ張る両輪なのだから、最終的には両方とも強くならなければならない。それをローカルで行うのか、グローバルで行くのか、はたまた両方をどうバランスさせるのか。あるいはこっちはグローバル、あっちはローカルという分担になるかもしれない。

 

さてここからはL.star個人の分析を言わせてもらう。日本ローカルは弱くない。日本人は勤勉でタフ、今まで不戦敗状態だった中国に負けつつあるとはいえそれでも上位の経済力を誇る。政治についても、EU諸国を見ている方がよっぽど危なっかしいぐらいで、ベルルスコーニやサルコジではなく鳩山が総理であったことに感謝すべき、と思うぐらいだ。日本の弱さの多くは、ローカルではなく日本の非グローバルにある。

移民政策に、いやグローバルを先にするために必要な施策全般にはデメリットがあるという。それはその通り。でも、そのデメリットは、21世紀を生きる我々みんなが乗り越えなければいけない障壁だ。ものすごく極端に言うと、デメリットを見ること無しに本当の意味でのグローバルを知ることはできないし、そのメリットを得ることができない。

もちろん日本は全てのデメリットから逃げている訳じゃない。でも他の国だって同様に闘っている。試行錯誤で痛みを受けながら前進しようとしている。特にオランダはこういう戦いに関しては果敢で、その点は本当に敬服すべきだと思う。闘っているのは移民賛成の人たちだけじゃない。コーエンほどイスラムと向き合った政治家ももちろんだが、ウィルダースほど懸命にイスラムと闘う右翼も日本にはいやしない。その戦いの中にこそ、本当のグローバルというのがあるように思われる。

だからL.starは繰り返し言いたい。メリットを見つめ、デメリットをつぶす問題解決を繰り返すこと。それが日本がグローバルと向き合うのに必要なことだと。いや本当はローカルと向き合う時にも必要なことだ。グローバルと向き合うのは、何も移民問題だけじゃない。諸外国と、グローバル企業と向き合うのもそうである。

あるいはもう日本は先進国であり続けるのに疲れたのかもしれない、とも思う。向き合わずに痛みを避け続けていれば、いずれどっかの民族が痛み無しにグローバルを受け入れられる方法を発明してくれ、それを使ってグローバル化を成し遂げることはできよう。しかし、そのように進んだ国から技術をもらって生きる国を人は「後進国」と呼ぶ。そして、日本は明治元年から高度成長時代までの100年間、そんな道は一度も選ばなかった。

ここで@Sophie525のエントリのまとめに戻ると、

30年も待ってたらその前に日本が沈没しますよという意見もあるでしょう。日本経済の弱体化が加速して行けば行くほど、日本人は職を求めて海外に出ざるを得なくなってきます。つまり、日本経済の弱体化が加速して行けば行くほど、日本経済を強化できる移民政策の実現に近づくのです(すこし皮肉ですよね)。

個人的に彼の作戦が成功するとして前述の通り閾値の考えに差があるので、30年かかるとは思わない。しかし我々にはたぶん30年などと言う悠長な時間は残されていないだろう。ただし、日本経済の弱体化によって海外に出て行った人たちは、たぶんもう日本には戻ってこれない。なぜなら弱体化した日本経済にはもうそういう人たちを雇う余力が無くなってしまうからだ。

だからL.starは繰り返し言いたい。そうなる前に我々はグローバルと闘わなければ手遅れである。そのためにはメリットを見つめ、デメリットはつぶす問題解決を繰り返すこと。必要なら過去の自分たちとも決別できるだけの強い意志で。それが日本がグローバルと向き合うのに必要なことだ。いや本当はローカルと向き合う時にも必要なことだ。グローバルと向き合うのは、何も移民問題だけじゃない。諸外国と、グローバル企業と向き合うのもそうである。

グローバルと向き合って闘って勝利を得るか、はたまた勝負を投げて後進国として生きるか、そういう時代にいるのである。であれば誰かにケチをつけて溜飲を下げるのでなく、グローバルと、ローカルと、どうやって闘うかまずは真剣に議論したいものである。そういう意味では、今回の一連の移民政策議論は大変意義深かったと思うのである。

 

しかし、こういうとき、「グローバル」だの「ローカル」だの、と言う言葉が微妙に自分の意図している何かとずれていることがもどかしい。たぶん日本人が英語をしゃべらなければならない理由で使った、茂木健一郎さんの地域の固有性を守るためにも、グローバル化に関与しなければならない。にある「文化」と「文明」が一番近いのだろうが、その概念を、ローカル、グローバル、そしてそれらが混じり合って調和した理想的状態を示す単語がやはり必要になりそうだ。

たった140字で日本を変える? ― 21世紀のイデオロギーは21世紀の技術を通じて登場する

By L.star, 2010 年 8 月 5 日

いろいろ日本についてつらつら考えているけど、国際人たちに聞いてほしいこと。そして排外主義者の人たちにもっと聞いてほしいこと。でもやったとおり、結局日本人に足りないのは自信、とかそういう結論に落ち着きつつある。まず自信を持つためには自己暗示が必要なのだが、それが不足している。

やれ移民だのなんだの、と具体的に日本を強化するような政策アイデアはいろいろ出てきているから、それを実行すればいいのだ。どんな政策にもメリットとデメリットがある。とにかくメリットを重視してデメリットと戦い、もう駄目だと思ったらさっさとその政策は捨てる。

そういう果断さが求められているのだが、局所解にはまってしまっている日本にはそれができない。確かに日本は素晴らしい文化を持っていて安住できる地かもしれないが、そこから変われなければ沈むだけである。まあそんなことを言っても、みんな自信が無いから実行できない。これは政治家だけの問題じゃなくて、全員の問題だ。

たぶんそんな状態を脱するために必要だったのは、理論でもばらまきでも経済復興でもグローバリズムでもなく、自信の裏付けになるものなのだ。果たしてそんな都合の良い銀の弾丸があるのか、というとあるのである。イデオロギー、あるいは宗教。イデオロギーさえ確立されれば、あとのものは、経済も社会改革も自然とついてくるだろう。

イデオロギーが世界を席巻した例は何度もある。イスラム教やキリスト教は、いずれも世界的な役割を果たした。精神論とバカにする事なかれ。日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題ではマクニールの独特の考察の話をしたが、彼は別に武器防具の話だけをしたのではない。宗教やイデオロギーも又、決定的なテクノロジーとして作用したと述べている。第一次世界大戦の集結を決定づけたのは、民族自決と共産主義の2つだったとまで言い切っている。

そんなことを「自信」と結びつけてエントリにしようと思ったのは最近ドイツのトリアーにいって、ローマ時代の遺跡とともにカール・マルクスの家にいってきたからなのだが、戦後という時代からの変化に戸惑っている今こそ、多数の迷える民衆の空白を埋めるイデオロギーの時代ではなかろうか。そして、イデオロギーを伝える役目としては、強力なコミュニケーションツールであるインターネットがある。

これは排外主義者としての「ネトウヨ」の成立過程を考えたときに興味深く思った点から来ている。彼らはネット上から自然発生し、判で押したように均質な発言ができる勢力を作り上げた。これは驚くべきことで、他の国では、排外主義にせよ宗教にせよ何にせよ、思想勢力が隆盛するにはそれを糾合できる指導層が不可欠である。ところがこのケースではそれがない。にもかかわらずある程度統率された行動力まで有しているのは驚く限りである。

実は黒幕が居るとか、未だ議席も持たないんだから隆盛の前段階に過ぎない、と言う可能性はある。でもネットによって新しい形のイデオロギーが発生しうることを示唆していると思うと興味深い。そうするともっと極端になると、例えばTwitterで運びうる140文字程度の計算され尽くした言葉が、Retweetによって伝搬して新しいイデオロギーの中心にさえなるのではないか、と思えるのである。

もちろんそうやって生み出されるのは殆どゴミなのだが、しかし人類の、あるいは地球の歴史などと言うのはそういうゴミのようなものまで含めての大量な挑戦の中から生み出されてきたのである。打率1厘なら大成功も良いところである。

そして、もしも本当にそんな言葉が現れるなら、それはもはや聖書やコーラン、「共産党宣言」に匹敵するような影響力を持つだろう。だから、以下のような特徴を備えているだろうと予言できる。

  • 個人の自信の礎になること。そのまま信じて実践することが、自分の成功の元であると確信できるようになること。
  • 現状と未来を説明できる。読んで「なるほど!」と思い、さらに「こうすべきである」という目標が明確になること。
  • 「中庸」を定義できること。「文化」と「文明」の関係にしろ、進歩のスピードにしろ、自分と個人の関係にしろ、極端にならず、現状の一番良い状態になるような形を説明できること。
  • より大きな「想像の共同体」を定義できること。多国籍企業の例などを見れば分かるが、もはや世界は国家の枠組みを超えたところで進行している。今の経済のありように合致した共同体を提案できること。
  • 悪者になるのができるだけすくないこと。以前の悪行はある程度リセットできること。「これから頑張ればまだ勝ち目はある」という思いを確認できること。

果たしてそこまで徹底的に研ぎ澄まされた内容を140文字にできるか?という問題はあるかもしれない。しかし思い返せば、かつての宗教とて、原理原則とて長い文章ではなく、民衆に記憶されたのは短いスローガンにすぎなかった。140字のスローガンなんて、長すぎるではないか。もちろんその言葉がスローガンにすぎないなら、その裏には膨大な思想が隠されているということでもある。

まあそういう意味ではタイトルは言い過ぎかもしれない。しかし、かつて出版が宗教革命に大きな役割を果たしたように、21世紀には21世紀のやり方で新しいイデオロギーが示されるのではないか、とは漠然と思う。その上でもしTwitterが有望な役目を果たすのなら、140字のスローガンが登場する、ということだ。

Twitterは200億tweetを達成したそうだが、逆に言うと200億回そういう試みがなされたとも言える。中にはどうしようもないのが99.99%だろうが、それでも200万は超えるのである。この100万回では効果が無かったが、次の1億回では何かそういう言葉が生まれないとも限らないのでは。そう考えると、今我々は本当に凄い時代に生きているのだな、ということを実感できるのではないだろうか。

国際人たちに聞いてほしいこと。そして排外主義者の人たちにもっと聞いてほしいこと。

By L.star, 2010 年 7 月 27 日

最近のうちの周りのブログ、排外主義がテーマである。

不景気だからこその移民政策のススメのコメント欄から始まって移民もまた人間であるそして日本人が本当に大嫌いなのは「異質な人々」まで飛び火している。実はあなたの国際人レベルはどのくらい?も元々はそこをテーマにしている。

ところでこういう排外主義が日本特有かというと、そうではない。排外主義は世界的には珍しいものでも何でもなく、反イスラムという形でならオランダ自由党PVVをはじめごまんといる。アメリカで最近話題のティーパーティーもそうである。最近東欧では反ユダヤが流行りだそうで又恐ろしい話である。そうでなくても、民族ジョークには差別ぎりぎりのやばいものまである。

さらに誤解しないように付け加えないといけないのは、排外主義は確かに勢いがあるが、いまだ非主流ということだ。例えば欧州では。オランダのPVVは先の総選挙で24議席を取って躍進して大きく注目された。しかし、与党に食い込めるか怪しい状況である。ハンガリーでは第二党を取ったという話は聞いている。しかし、ドイツ・フランスなどの主要な国では、そこまでではない。

前回のエントリでは国際人としての分類分けをしたが、レベル2、つまりグローバルで活躍することを選ぶと、グローバルが速いペースでの進化を要求するため、どうしても保守的な排外主義者とは対立してしまうことになる。もうそれは運命である。しかもグローバルの世界は圧倒的な強さでこちらを追い詰めてくる。前線にいる国際人としては、前門の「文明」後門の「排外」、とでも言いたくなる状況に追い込まれてしまう。せっかく日本のために戦っているのにこれでは報われない。

でもあきらめずに頑張るしかない。グローバルとの戦いに簡単な解答などないように、排外主義との戦いに簡単な答えなどない。

L.starにとっての排外主義との戦いはオランダに住んでいるからこそ思う、外国人参政権論を考えてみた前後あたりがスタートである。そのときは外国人参政権と絡めて知的移民の必要性について論じたが、ネタがネタなのもあってまあよく荒れた。しかしその1年後に書かれた、参政権のさの字もないLilacさんやelm200さんのエントリのコメントを見る限り、何一つ進歩がないように感じられることに愕然とする。

ただ、個人的に排外主義者のコメントにはうんざりするが、それでも彼ら自身を嫌いになることは難しい。と言うのも彼らのコメントには、自信のなさがはっきり見えるからだ。「差別と外国人が嫌いです」とでも言わんばかりの相手に対するステレオタイプ的蔑視、ノー・トレランスに近いリスク回避傾向、マスコミや政府などの他者への転嫁。

全て自信が無い人の行動である。与えられた要求に最適化したゆとり世代や、ただただ自分たちの目の前に忠実な官僚を責められないように、やっぱり排外主義者も責める気にはなれない(とかいいつつ暴言コメントは吐くけど)

自信が無い人は答えとして別の何かにその源を求める。しかしそれは間違いである。残念じゃない日本ってどんなのか、考えたことがありますか? – みんな、自分に自信を持とうでも考察したが、自信は結果より先に醸成されるべきものであり、それを生み出す機構に欠けているのが日本における精神的な問題であるのだ。

だから排外主義者の人たちには、今一度自分と日本文化とのあり方をしっかり考えてほしい、と思うのである。あなたの信じている日本という国の、地方の、文化の与えてくれる自信は本当は幻想に過ぎず、自分の中に最初からあるものだと言うことに気付いてほしい。日本が素晴らしいから日本文化が素晴らしく、それに属するあなたも素晴らしいというのは間違いだ。あなたが素晴らしいから、それを要する日本文化も日本も素晴らしいのだ、と言うことに気付いてほしい。

ここで言いたいのは「日本を愛するのは駄目」というのではないことにも注意してほしい。何を愛するのも何を嫌うのも個人の自由だ。ただ順番がある、あなたがあって、世界がある。それが唯一の正しい解答だから。そしてその上で日本を好きというのは何一つ問題ない。

そして、日本が好きなのだから、「日本が何をしてくれるか」ではなく「日本に何をしてあげられるか」を真剣に考えてほしい。日本が素晴らしくあるためには、その構成員全員のたゆまぬ努力が本当に必要なのだ。誰かの揚げ足を取るのは辞めて、自分が進んで日本のために何かをまずしてほしい。敵は世界だ、と言うことを改めて認識してほしい。そのためには、日本の中で争っている余地など本当はないのだから。

最後に、たとえ排外であれ国際的であれ、ノー・トレラントは拒否したい。我々の世界は常に問題だらけで、メリットを信じながら一つ一つ問題をつぶして、それでやっと少しづつ進歩するようなことの連続である。いつも成功より失敗の方がずっと多いのである。そこで「失敗するかもしれないからチャレンジしない」などという甘えた考えは、現実を見ないきれい事にすぎない。

プログラマの間では、こんなジョークが知られている。

「バグのないプログラムの書き方?そんなの簡単だよ。1行も書かなければいい」

我々の世界をシステム開発にたとえるなら、常にバグと戦いながら少しづつ改善していくプロセスなのである。よくするためには、悪くなる可能性があるのを分かってでもコードを書かなければいけないのだ。それを怠ったとき、システムは死ぬ。日本を殺したくないなら、良くも悪くも挑戦あるのみなのだ。

あなたの国際人レベルはどのくらい?

By L.star, 2010 年 7 月 27 日

L.star界隈のtwitterでこんな話題が。

私は日本人なのだが、たぶん一般的な日本人があまり好きではないのだ。私が抱えているもっとも大きな心理的問題は、民族同一性障害なのかもしれない。

元ネタになる一連のツイートは知的移民問題と絡めてである。L.starも昔やったことがあるが、これは結構荒れる。しんどい問題である。

民族同一性障害、というより、人は根本的に文化に対する接し方が異なる。だから民族に対するとらえ方より、民族と他文化と自分との関わりで類型化できるのではなかろうか。日本人が英語をしゃべらなければならない理由で語った文化=文明モデルを元に、国際人としての分類分けをしてみたい。

レベル0:自「文化」中心型

基本的に自「文化」を真ん中に据えて、他の文化の存在に否定的、あるいは好奇の目で見ているだけの人。世界に関する関心は薄く、ややもするとバカ世界地図に出場できる知識しか持っていなかったりする。しかし自「文化」についての関心は強く、総合的理解度も高く、その効能を強く信じている。しばしば情緒的である。というのもどの「文化」も歴史的地理的経緯から発生する非合理を抱えていて、それとうまく折り合わなければいけないからだ。

基本的に保守的であり、自「文化」を正しく守ろうと言う気概があり、それゆえに他の文化から学ばない。日本国内で日本語で生活していて、外国と交流していない人の大半はこのモデルではないかと思う。

なお、レベル0をこじらせると他文化を強く否定するようになり、立派な国粋主義者になれる。

レベル1:P2P型

自「文化」に加えて、他「文化」の存在を肯定的に認知している人。ただし、それは自「文化」vs「諸外国」という二元論で、通常「諸外国」といっても特定の1国程度で、主に特定の専門分野を通じて交流している。インターフェースそのものは狭いが、その内容は密で、両「文化」の架け橋になる存在である。2つあるどちらかの「文化」を軸足に持ち、他方の良いところを取り入れるのが基本になる。例えば「和風フレンチ」などは典型的な例といえよう。

以前日本人はどの程度英語をしゃべれるべきかにてレベル4の英語をしゃべる人は、と言ったことがあるが通例そういう人はこのレベル1である。

レベル1をこじらせた人は軸足を見失って外国かぶれになる。諸外国のありようが何でもよく見えてしまうわけだ。

レベル2:スター型

「文明」の持つ特性とその長短所を理解している「文明」人。この人たちにとっては自「文化」はたまたまよく知っているものであり、多数ある一つに過ぎない。大抵論理的である。というのもレベル0とは逆に、「文明」にはその成り立ちからも非合理があまりないため、情緒的な人から見ればあまりにも殺風景で、耐えられたものではない。

一見レベル1より良さそうに見えるが、結局「文明」というハブを通じてものを見ることになりがちなのと、多数「文化」を目にするために、一つから大きくは学べない。その代わりに、あらゆる「文化」の長所を組み合わせるようなダイナミックなこともできるのが特色である。近代日本は幕末の混乱の反動からここにうまくジャンプできた例かもしれない。陸軍をプロイセンに、海軍をイギリスに学ぼうなどと言うのは

レベル2をこじらせた人は、実は自分自身を見失って分裂したり迷走してしまう。レベル0,1にはあった軸になる文化が、ここではあまりにも希薄になってしまうからだ。それを防ぐためにも論理によって自分を正当化できることは重要である。

レベル3:真の国際人

レベル1も2も、実は国際的な文化交流のモデルとしては不完全で、完全になるためには両方について熟知する必要がある。

だからこそ「文明」と「文化」の両モデルを完全に理解して使いこなせるのが真の国際人である。ただ、これを今できる人は限られた天才だけだろう。例えば大好きなマクニール先生のような偉大な学者、政治家や芸術家はこのクラスを達成しているかもしれない。個人的には目指したいと思うが、自分自身のライフワークとしてならともかく、生きる武器としての国政制としてはいささかオーバーキルではなかろうか。

番外:世捨て人

そもそも交流を拒否する人。深い説明の必要はないだろう。

 

いかがだろうか。ただし、このレベル分けにしたところで、同じ人でも項目によって異なる、ということだ。例えばNetscapeのCTOだったマーク・アンドリーセンはプログラマーとして、あるいは起業家としてレベル2以上かもしれない。しかし彼は中国に出張してすらピザしか食わなかったと言う噂を聞いたことがあるので、それを真に受けるなら食文化的にはレベル0だったようだ。いやジャンクフード好きというのは立派な食文化レベル2なのかもしれないが。

あるいは逆に日本人がいくらレベル0が増えているといっても、ミシュランが驚愕する東京などをみれば、食に対する豊かさはレベル2であろう。

同じ項目に置いてすら複数のレベル分けが共存しうる。例えば一見伝統的に見える芸能ものが、実際には他文化の同等品を徹底的に研究し尽くしていたり、とかである。フランス料理は伝統料理かもしれないが、最前線のシェフはあらゆる料理食材を研究していることだろう。

最後に一番重要なのは、「文明」と「文化」は相互補完的であるからして、レベル3のような理想像を除けば、どのレベルが正しいというものはない、ということを肝に銘ずる必要がある。どのレベルも本来同じように重要であり、相応の敬意を持って迎えられるべきである。こじらせたやつはやっかいだが、しかしそれはレベルでも同じなのである。

言い換えると日本「文明」はレベル0,1,2「文化」の人たちで構成されているというのは言い過ぎだろうか。同じ構成員なのだから、お互い協力して強い日本をつくっていきたいものである。

日本人が英語をしゃべらなければならない理由

By L.star, 2010 年 7 月 22 日

また英語ものだが、前2回の

日本人はどの程度英語をしゃべれるべきか

日本人が英語をしゃべらなくて済む方法

と続いた後、その次のエントリとしての「グローバルとローカルの関係」という内容を書くのに大苦戦した。いずれも「世界と日本人がどのような関係を築くか」というのが裏のテーマとして存在していたのだが、頭の中の鮮烈なイメージを具現化するには、いろいろと不足していた。実際4つぐらい没がたまり、そろそろあきらめようとしていた矢先に、イメージそのままの文章が見つかった。

地域の固有性を守るためにも、グローバル化に関与しなければならない。

私たちは、「文化」と「文明」の区別をする必要がある。インターネットの時代に、世界共通の流通のインフラとして構築されつつある「文明」と、それぞれの地域に育まれ、いわば「温存」されていく「文化」と。インターネットを通して、世界の文明がいわば地球規模の「単連結」なものとして発展していくことは、それぞれの地域の文化が消えてしまうということ、あるいはそれが世界中へと流通していくことを必ずしも意味するのではない。

まさにこの「文明」と「文化」という2単語に集約されていると言ってよい。繰り返しになるが、グローバルで話されている英語と英米人が話す英語は別物で、それと同じように、英語の裏にあるものも別物なのである。

 

「文化」同士が交流を行うとき、それはどちらかの母語がベースになってのP2P型になる。しかし、「文化」は地域にしっかりと根ざしたもので、交流は非常に限定的にならざるをえない。

例えばオランダ人と日本とのこのようなコミュニケーションを見る限りでは、いずれもお互いの「ちょっと面白そうだと思ったもの」を楽しむ程度にしか理解しようとしない。オランダ人はSUSHIを楽しむかもしれないが、それはあくまで「珍奇な料理」としてであり、日本食の文化的体系になど全く興味を持たない。

「最近の死ぬほど暑い日にオランダ人にそうめんを振る舞ったら、こんな食べやすい料理があるのか!と驚かれた」と言う話を聞いたが、ひょっとするとそうめんもヨーロッパで大ヒットするかもしれない。しかしその場合、たまたま欧州文化に無かったものを埋めるために輸入するので、そうめんにある日本文化のバックグラウンドは無視される。

同様のことは日本人だってやっている。例えば普通の人にとってカレーライスは日本の文化であり、輸入元のインドや欧州の文化を感じるのはごく少数である。また日本にある厚切りの食パンに相当する食べ物は実は欧州にはない。あれは日本の米食文化にもとづいて、パンを主食と解釈し、主食らしくなるように改変した結果である。日本人からはそう見えないかもしれないが、パンは明らかに米の代用品にすぎず、米食文化の本質には全く傷がついていない。

これは日本と欧州、オランダとの交流の例を取ったので非常にお互いに文化的距離がある。もちろんヨーロッパ諸国内などでは、日本よりもずっと距離が近いために、もうちょっと楽になるかもしれない。いずれにしても困難な道のりである。

このようにP2P型で行われるやりとりは、お互いの文化を尊重した形で行われ、たまたま足りないものがあった場合にそれが部分的に取り入れられる。既存の文化をわざわざ破壊してまで導入する価値があるものというのは多くないし、たとえ多かったとしても毎回都度文化をぶちこわしていてはコストが掛かって仕方がない。だから、頻繁に文化を取り入れないことには合理性がある。

 

そして、世界にはもう一つの「文化」同士の交流法がある。それは「文明」を経由して行われる、スター型の交流である。

「文明」という主体はあまりにも漠然として判別しづらいが、交易などを通じて不明瞭な形を表しつつある。なにしろ土地や民族のような、根ざすものがない。かわりに「文明」は「文化」の中に寄生虫のように根を下ろし、そこから様々なものを吸収して生きている。ただしあらゆる「文化」と上記のP2P型コミュニケーションを大量にこなしている結果として、「文明」は「文化」の最大公約数的なものを身につけている。

「文明」が寄生虫であるメリットは計り知れない。なにしろ実体がないので、寄生している文化から何かを取り入れるときの壁が非常に小さい。それによって、たくさんのものをより少ないコストで取り入れることが出来る。取り入れたものがよいものであれば、相乗効果は計り知れない。取り入れるものが数個程度なら「文化」にもできる。しかし20や30といった爆発的なスケールは「文明」にしかできない。デメリットとしては絶対に100%になることができない。元エントリではそれを以下のように指摘している。

ローカルはロングテールに返還される。グローバル化が進展したとしても、世界各地の文化が全て均一になってしまうわけではもちろんない。

まあ個人的には最後は均質になると思っている。ただし、それは「文明」が「文化」になると言う意味であろう。そもそも何世紀かかるか予想もつかない、我々のあずかり知らぬ話だ。

そんななので、「文明」は絶対に「文化」を破壊し尽くすことはできない。その代わりにあらゆる「文化」の隣人になって他「文化」から学び、あらゆる他「文化」に教える。例えばさっき日本とオランダは距離が遠いと書いた。しかし、両方とも「文明」と近い距離にいる訳だから、文明経由日本発オランダ行は、直通より遙かに距離が近いことになる。まさにワームホールである。欠点は「文明」というフィルタを介したものしか伝えられないことにあるが。

この「文明」と「文化」は、日本における国と地方の関係によく似ている。つまりローカルである各地方があって、その上に我々が日本全国と呼んでいるグローバルがある。江戸時代の藩制度から中央集権に代わっても、日本は完全には均質化しなかった。確かに多数の風習が無くなったりしたが、それでも未だ地方の特色というのは色濃く残っている。方言すら消えていない。もっとも今や日本全国は「文明」から「文化」になったともいえるかもしれない。

ところで、元エントリにかえって

グローバルな文明は、ルールが変わりゆく世界においてはローカルな文化の破壊者ではなく、その存在条件に次第に変わっていく。グローバルな「文明」への参加は、各地域のローカルな「文化」を持続可能なものにするために、どうしても不可欠なことである。どれほどローカルな文化の大切さを説いても、グローバルな文明との関係を整備しなければ、そもそもの存続すらが危うくなるのだ。

ここでいきなり「文明」への参加が「文化」の持続可能条件に飛躍しているのがやや残念と感じた。その理由は一番重要なことだと思うのだが。ただここを理解することはできても、説明するのは難しい。個人的には以下のようなものだと考えているが。

  • 「文明」があまりにも巨大化したから、かつては可能だった「文化」が「文明」に参加しないという選択肢がもう消えている。
  • 「文化」と「文明」が互恵的な交流を続けた結果、もうすでに大半の「文化」が「文明」なしに生きられなくなった。つまり共生状態に入ったから。例えば日本の「地方文化」の殆どはもはや独立不可能である。
  • 「文明」の力が圧倒的になった結果、「文明」の恩恵を受けられない「文化」は圧倒的不利となった。

 

最後にやっとここで「英語」という単語が出てくるのだが、それほど「文明」が強力で重要だからこそ、我々日本「文化」は彼らと対話して正しい関係を築かなければならないし、いまそれが毀損しているなら最優先で修復しなければならない。

そしてさしあたって何が問題かというと、まず「国際共通語の話者が足りていません」ということである。「英語をしゃべれるようになる前に日本人としての中身を」と言われるが、気に病むことはない。必要なのは「文明」型の多文化との交流であり、中身だったらその交流を通じて身につけることができる。

日本「文化」と「文明」の対話インターフェースを改めて確立しなければならない。それが日本人が英語をしゃべらなければいけない理由である。だれでも英語がしゃべれるべき、とは思わない。しかしまとまった人数の英語話者が必要である。

日本に新しい議会を作れ ― 議員数10万人の「市民院」

By L.star, 2010 年 7 月 14 日

前回の

全議席比例代表制度にする前に日本の政党が変わらなければいけないこと

にて、自民党の河野太郎氏の民主主義の権利と義務と言うエントリを紹介したが、そのはてブを見ると「被選挙権行使はハードル高すぎる」という意見が多いのに驚きつつ、確かに一理あると思った。

統計局の資料(PDF)によると地方議員総数は30000超、国会議員に至っては1000以下な訳で、実際候補者になるにもそうとう厳しい試練である。ましてやノウハウや地盤のことを考えると、二世でもない限りほぼ無理か、と思ってしまう。候補者が居ないなら自分が立候補、というのは民主主義の正しい有り様だが、それを実践する制度に欠けていないか、と言う話になってします。

じゃあ逆転の発想をしようではないか。世の中では議員削減が叫ばれているが、思い切って極端に増やしてしまえばいい。例えば国会議員10万人になれば、競争率は1/1000まで上がり、ちょっと優秀な個人で手の届く範囲になってくる。むろんそうなると今までのように高給取りであるわけにも行かないから超薄給になるが、それはそれで雇用対策と言っていいだろう。

まあなんで10万人とか言い出したのかというと、昔

10万人規模の政治家を擁するインターネット国会を実現する – 狐の王国.

を読み、対立エントリの

ネット衆愚制よりネット独裁者

を書いたことがあるからなのだ。ここではL.starは「10万人の国会によるほぼ直接民主制など衆愚制の極み」と批判しているわけだが、しかし多数が参加するメリットも多数あるのも確かだ。例えばそれにより経験を積める層があり、自分を売り出せる可能性もあるわけだ。

今回は大元のアイデアを継承しつつ、しかしそのような衆愚制に陥るのを避けつつも、政治に参加して意見する、と言う形をどう作るかと言うことを考えてみた。すなわち今の政治システムはそのままに、さらに「市民院」を創設して市民の政治参加を促すことだ。

いろいろ決めなければいけないことは多いが、とりあえず簡単に考えてみた通りをあげておく。

  • 市民院は、衆議院および参議院の下部組織である。
  • 市民院の定員は10万人とする。
  • 市民院議員の任期は1年とし、再選を妨げない。
  • 市民院には、議長(1名)、モデレータ(100名)そのほか必要に応じた役職を設ける。全ての役職は市民院議員による互選とし、再選を妨げない。
  • 市民院議員は、衆議院および参議院議会等にオンラインで参加し、オンラインにて議論する。この議論には、市民院議員の他、内閣や議会等が必要と認めたものが加わることができる。
  • 市民院モデレータは、議論の方向性を整理したり、議論のうち重要と思われるものについて抽出したりすることを責務とする。抽出されたものは議会等のディスプレイに表示されるなどして、議員が閲覧できる状態に置かれる。
  • 市民院は、衆議院等の求めに応じて、特別の議題に対してオンラインの無記名投票を行う。結果はやはり即時閲覧可能状態となる。
  • 市民院の議決は、いかなる法的効力も持たない。
  • 市民院議員は、招集され参加した時間に応じた給与を受け取る。

まあ要するにネットのぐだぐたをそのまま政治に格上げするようなものなのである。しかし、きっちり国会を見て、資料を読んだり自分なりに意見を出したりするだけでも、参加している感は全然違うだろうし、実際の政治に対する理解も深まるだろう。その中でも優秀な発言をした人や、役職の経験を積んだ人は、十分経験があるといえ、上のレベルの政治家になる道も開けるだろう。

これは単なるおもちゃだろう、と言う意見もあるかもしれないが、L.starとしてはこれは共和制ローマにおける市民集会に近いものだと考えている。10万人という多数は大衆の縮図である。ここでは特に選挙方法や選出方法を示さなかったが、極端な話ランダム抽出で問題ないとすら考えている。

重要なのは、議決にいかなる法的効力もない、ということである。議会や内閣は、愚かな大衆の言うことに従う必要はない。しかし声には耳を傾ける必要はああるだろう。だから、議会や内閣は市民院を通じてより正確な民衆の考えを知ることが出来るし、市民院に正しく理解してもらうことで民衆との橋渡しにもなるかもしれないと考えている。

一番恐ろしいのは、議会が市民院の議決がそのまま通ってしまうようなスルー組織に成り下がってしまうことだ。むしろ市民院が議会の議決の追認機関になるぐらいでないといけない。とはいえ、法案の可決否決などは駄目だとしても、役職の選任とう、何らかの議決権があっても良いと考えている。

一方で課題の山積み度は半端ではない。簡単にあげるだけでもこれだけある。

  • 10万人もの多数のコミュニケーションをどうやって取るのか。動画配信はすでに可能だが、意見を集約することが可能なのか。2chに当てはめれば、一人一発言でも100スレ消費する勢い。
    twitterにしても、一時間に一人1tweetで28tweet/秒で、これは現在のtwitterのトラフィックの3%近い。誰かの失言に1秒に5%の人が反応すれば5000tweet/秒、デンマーク戦のゴールも越える化け物っぷりである。
  • 衆議院等とのコミュニケーションをいかにして行うか。
  • 市民院が衆愚組織に堕する可能性は高いが、本当に国政に影響しないか。あるいは衆愚に陥りにくくする対策はできないのか。
  • 市民院議員からのキャリアパスを本当に作ることはできるか。
  • 国政に導入するのは良いとして、地方にはどうするか。
  • どうやって投票するか。議決権がない、あるいは限定的な故、各種議会選挙ほどの厳密性を持たないオンライン投票で良いのではないかとも考えているが、組織票で埋め尽くされたりしないのか。
  • 時間管理、報酬等をどうするか。

最後に自分がそれをやりたいか、と言われると日本にいるならイエスと答えるだろうが、個人的にはむしろそれだけのコミュニケーションを成り立たせるアプリケーションやそのバックエンドを構築する方にずっと興味がある。そういう部分L.starは、残念ながら骨の髄まで技術者らしい。

全議席比例代表制度にする前に日本の政党が変わらなければいけないこと

By L.star, 2010 年 7 月 13 日

週末はやや体調を崩していたが、頑張って夜のオランダ=スペイン戦を見ていた。勝ったスペインにはおめでとうと言いたいが、しかし・・・

確かに荒れた試合だったが、イエローカード総計14枚というのはいくら何でも多すぎるように思えたし、所々誤審も(しかも重要な場面で)あった。実際スペインは守備陣に隙がない上攻撃も果敢と、確かに強かったし勝つのは順当だろう。しかし素人目にあまり後味の良いものではなかった。

後味が悪いといえば先週末の参議院選挙。twitterで「選挙も後味悪し…」とつぶやかれていったいどんな、と思っていろいろデータをあさってみたが、確かにどうにも解釈しがたい。得票数で勝る民主を一人区でことごとく破るなど圧倒した自民が大勝、と言う結果はいったい何と読めばいいのだろうか。

もちろん今回の獲得議席は決定で、そこに疑義を差し挟む余地はない。違憲だと裁判を起こすことはもちろん可能だが、どうせやり直しにはならない。そもそもそういう戦略が有利になるような制度で投票するのに合意したのは今までの議員で、しかもそれを選んだのは国民なのであるからして、結果に文句を言う余地などない。

問題はやはり、5倍にも達する一票の格差だろう、と言う分析がなされている。それに合わせた戦術を駆使した自民党が勝ったと言うことなのだろうが。選挙戦術の善し悪しが一人一人の票に勝るというなら、いったい何のために投票すればいいのだろうか、と考えされられる。

そんなこんなだからなのだろうか、今回の結果というか過程と言うかには思うところもあった人が多いらしく、選挙制度改革を求める声がブログ界には出てきていたようだ。今は自民党一党独裁体制の昔とはずいぶん勢力も変わってしまっている。次はもっとより世相を反映しやすく、国民にとって受け入れやすい妥協案を探してくれるように、というのはあるだろう。こういった選挙制度改革はそれ自体が国家政党の枠組みを決めてしまうので簡単にこれと決めるわけにも行かない。

どれもBLOGOS仲間(もっとも仲間といってもL.starは末席を汚しているに過ぎないが)になるが、上脇先生の

やはり民意を歪曲する選挙区選挙は廃止するしかない!

が数字がまとまっていて面白い。dankogai氏も

民主党が負けた本当の理由

にて同様の指摘をしている。面白いのは二人とも参議院にて全議席比例代表を、という主張をしている点だ。逆にアメリカ上院や国連議会を範に「格差上等、もっと地方色を高めろ!」という意見も木走まさみず氏の

参議院は「一票の格差」是正を思い切って放棄してみてはいかが

にてみられる。いずれにしても衆参で大きく違う制度を、という点では一致している。

ところで、個人的に以前

オランダの総選挙に学んでみる

で、実際に完全比例代表制のオランダ下院総選挙について学んだ。その中のポイントで比例代表は穏健な多党制に収束しやすい、というのがある。その場合多政党による連立が組まれ、与党内の協議により現実的な落としどころが生まれるということだ。

ここでは仮に今回の結果だけをベースに与党組閣を考えるとして、上脇先生の上記のブログから「各政党の選挙区・比例代表選挙での合計当選者数、比例代表選挙の得票率および比例配分試算議席数」という試算値をお借りして、実際に多政党連立がどのような形になるか検証してみよう。まずはわかりやすいように試算値を抜き出して表にした。

政党名 試算議席数
民主党 38
自民党 29
公明党 16
みんなの党 16
共産党
社民党
たちあがれ日本
国民新党
新党改革
諸派
幸福実現党

これで61議席以上を確保できる組み合わせというと以下のようなものが考えられるわけだ。

  • 民主+みんな+公明(70)
  • 民主+自民(67議席)
  • 民主+みんなor公明+共産(61)
  • 民主+みんなor公明+社民+その他1(61,2)
  • 自民+公明+みんな(61)
  • 自民+みんなor公明+共産+社民+その他2(61,2)

こう並べてみると、かなりあり得ない組み合わせが多く見られるというか、今までの経緯等を考えると、とんでもないと言ったほうがいいだろう。最も鳩山内閣に近い4番目はいまさらないだろう。共産党が与党というのも想像がつかない。そしてみんなの党が民主とは組まない、と言うのを真に受けるなら、2番目の大連立か。あるいはまだまともに見えるのは5番目だが、第一党が野党というのからして普通あり得ない。

ここでいう政権交渉というのは、あらゆる政策案や行動指針をぶちまけて、お互いに「ここはOK」「ここは妥協できない」といったことをいちいち検討するのである。その交渉の中で当然マニフェストにあったことをあきらめないといけないことだって出てくるわけだ。別にオランダにしたところで連立交渉は大変なわけで、選挙から一ヶ月まだ決まっていない。

全議席比例代表の問題というのは、はたして圧倒的な第一党があるのが普通だった日本の政党に、今までのわだかまりと政策の差を乗り越えて政権を樹立するという根気強い行為はできるのだろうか、という点につきる。それができるように変わらなければ、より一層の迷走の度合いを強めるだけである。

又そうなったときには、各政党が、より個性的な、わざわざ選ぶ価値のある特色を持った形に変わらなければならない。どれも同じようでは、結局民衆に見透かされるだろう。もっとも多党制を受け入れられるようになるなら、移ろいやすい多数に働きかけるより熱心な少数をがっちり味方につける方がずっと効率的になるため、そのような流れは加速するだろう。

個人的には、こういう完全比例代表を行うなら、それがより国民の一票を反映するが故に上位にある衆議院にすべきだろう。これにより日本は二大政党制からおさらばすることになるだろうが、与党間の合意による日本全体の合意形成に役立つだろうと考える。他方参議院は完全選挙区(ただし格差はある程度是正する必要あり)として、国民全体の意見が地方の意見に優越する印にすべきである。オランダの二院制に近い形(下院は比例代表、上院が地方議会による選出)と非常に似ているが、若干影響は受けている。

ちなみにこのような制度になった時、空白地帯になっているのはより右翼的な、例えばネットの保守層をカバーするような政党である。今のところ消極的ながら自民党やみんなの党支持となっている層だが、こういったところにマッチする政党があれば現状の不満層をかなり吸収できるだろう。麻生元総理とかがトップになってやらないだろうか?彼ならネット保守層の信望も厚いし、彼らの要望を現実的な政策に落とし込む能力にも長けていると思うのだが。

まあそういう与太話はさておき、他にもいろいろやることはあるだろう。ネット選挙の件もある。想像してごらん?日曜日以外に選挙があることを。では、日曜日以外に選挙を行うことでの会社員フレンドリーなあり方を検討すればどうか、と言う話もした。どの党のマニフェストにも熱心には書かれてなかったようだが、こういった議員と選挙システムと国民との垣根をなくすような選挙改革は是非どんどんやっていただきたいと思うのである。

 

P.S.

今回の選挙後の記事をいろいろ見ていて一番ほっとしたのは自民党の河野太郎氏の民主主義の権利と義務と言うエントリ。現実認識も優れているし、必要な適度な危機感もある。そして民主主義についてもよく分かっている。氏の言う「あたりまえの国会」ができるようになれば、国会は今の迷走から一歩前進できるだろう。このようなきちんとした政治家がいるなら、日本の政治もまだまだ捨てたものじゃない。

日本版シリコンバレーが成功しないたった一つの致命的な問題

By L.star, 2010 年 7 月 7 日

池田信夫氏が文明の生態史観を紹介していた。農耕民族と騎馬民族の関係が文明の形態に影響を及ぼした、と言う話である。

マクニールは「世界史」で同様の問題について深い考察を書いている。遊牧民と農耕民の力関係がテクノロジー(例えば古代戦車、鉄器、鐙、銃などに)によって変化する、などである。例えば戦車のような機動力に勝るが高度な技術が必要な武器が優勢な時代が統率力に勝る遊牧民が強く、文明国家があっさりと滅ぼされる。逆に鉄器や銃のような大量配備が容易で、扱いが簡単な時代は農耕民が優位で、巨大な帝国が勃興する要因になる。

もちろんこのような遊牧民と農耕民というパーツをそのまま21世紀に持ってきて、正しく考察できるかというと、なにしろいろんな要素が変わりすぎてしまっているので無理である。しかし、その骨格は十分応用できるだろう。

つまり、優勢な武器と、それにあった習慣を持った社会は、世界で優位を確保するのである。今現在「武器」の地位を確保しているのは産業だろうが、それに対応する社会習慣は3種類あるかと思う。

  • 優秀な少数(数人から数十人)のスタンドプレー物事を成し遂げる個人主義的なもの
  • 高品位な中規模(数十人から数百人)の連携チームプレーで物事を成し遂げる集団的なもの
  • 品質はさておき数的優位を確保、明文化されたルールで制御していく組織戦

こう考えれば殆どの人が「日本は2番目の典型例」と考えるだろう。池田氏も以下のように書いている。

他方、社会が自生的な生態系を形成しているため、地域や企業などの中間集団のまとまりが強い。

ところで米国シリコンバレーは明確に1番目だろう。彼らの企業規模は基本的に少数精鋭で、Googleなどは今や万単位の社員を抱えるが、5000人の時ですら殆どのプロジェクトは少数で構成されていたという。このような集団ではもちろん巨大なものを成し遂げることができないが、小さな突飛もないアイデアで小さいが突拍子もないアイデアで大逆転を狙うには適している。

そして実際ソフトウェア開発というのは小さなものである。巨大なシステムでは例外もあるだろうが、プロジェクトでのコアなエンジニアはせいぜい10人程度で、それでも実際に凄いものができあがる。極端な話だと、数千人月つぎ込んで作ったものより、数人で気合いを入れて作る方がよほどましなことがある。それがソフトウェアというものだ。

この2つを掛け合わせると、シリコンバレーモデルは、ソフトウェアシステム開発という小数人数向け武器と、少数の個人の組み合わせで起こっているムーブメントである、といえるだろう。日本はもっと大きい集団を得意とするから、日本版シリコンバレーは絶対に根付かない。

逆に言うと、少数精鋭が似合うソフトウェア開発で日本が優位に立てないのも当然だろう。大企業は集団モデルを明確に持っていて、それしか提供できない。他方少数精鋭というソフトウェア開発の特性に合わせた中小ソフトハウスは、諸事情により有効な規模まで大きくなることができない。その点は昔社員20人から先に進めない小規模ソフトハウスでも考察した。大きなジレンマを抱えている。

もちろんこれはマクロ視点なので、ミクロに見ると間違いだ。日本にも優秀な少数というのはいて、彼らも成功する。しかしシリコンバレーのような、閾値を超えた成功を得るには至っていない。シリコンバレー並みの個人の扱いを社会が覚えなければこれからも無理だろう。

むしろ日本に必要なのは、少数のスタートアップの補佐より、中規模への発展を補佐する仕組み、そしてうまくそのグループを効率的に編成して成果を上げる仕組みが必要では無かろうか。劣っている部分を強化したり、弊害を除去するのはもちろん必要で、例えば日本版シリコンバレーに必要な事情の整備であるとか、組織戦のノウハウの整備であるとかも重要である。しかし、せっかくの長所が見えているのだから、同時にそれを使わない手はない。

それに、ソフトウェア開発にしたところでいつも数人が最適ではない。残念ながらゲーム業界をよく知っているとはいえないので、推測に過ぎないが、日本の大作ゲームの一部が世界でも評価されるのは、大作の開発には大きなチームが必要になることと一定の関係があるかもしれない。もっとも多数の世のデスマーチの噂を聞くかぎり、単純にソフトウェア業界は力不足だから、ともいえそうである。

他方中国の昨今の産業政策は3番目のように思われる。欧州はと言うと難しいが、私見では彼らは3番目である。ルールを明文化して制御するのは日本に比べてめっぽう強い。もちろん日本でも、大企業はこのような組織戦のノウハウをある程度持っている。しかし単なる組織力は、今世界ではそれほど重視されていないようである。

もちろん、米国の少数精鋭が指示し、中国の人海戦術がそれを実行するというタッグは、あくまでモデルとしては完璧であるように見える。世界と日本が戦うということは、そういう新しい傾向とも戦うことである。

そのために日本の弱点を強化するか、あるいは長所にあった武器を考案するか、あるいはここは一手休んで傾向が日本に有利になるのを待つのか。多数の答えがあり、多くが正解になり得る。ここではその元になる仮説を提示するだけで、それ以上は随時やっていくなりしたい。ただ個人的には、日本の弱点を克服する最良の方法とは日本の長所であり、それは表裏一体と考えている。日本は中間集団になることによる弊害があるなら、その弊害を破るのも中間集団のもつ力ではないかと思う。

日本人が英語をしゃべらなくて済む方法

By L.star, 2010 年 7 月 5 日

なんかいろいろ書きたいネタがたまっているがなかなか書く時間がとれなかったりして難しかったりする。オランダは今年はずいぶん暑く(といっても日本の夏に比べれば雑魚なはずなのだが)疲れているのもあるのだが。

ところで、今回は日本人はどの程度英語をしゃべれるべきかからのアップデートである。ここではLilacさんやelm200さんにならって、日本人のかなりがレベル1ないしは2の、いわゆるリングワ・フランカとしての英語をしゃべるようになるべきだ、という主張をしているわけだ。もちろんそれには合理的なものも感情的なものも含めて、いろいろ反論がある。

しかし、リングワ・フランカなどという単語を出すからには、ここでいう「英語」はたまたま世界共通語になっているのが英語だから英語というのであって、それ以上でも以下でもない。世界標準が英語からタガログ語に移行すれば「日本人はタガログ語をしゃべるべきだ」という論調になるだろう。

そして「日本語がリングワ・フランカになるなら、日本人は外国語など覚える必要がない」という論が出てくるのも当然だろう。これは全くその通りだ。そうなると世のエリートビジネスマンは日本語をしゃべるようになり、彼らの不利な立場で、我々が堂々と有利なことができるようになる。全く素晴らしい究極の解決策である。

ただ、これを実現するのは相当大変だ。まず、経済的にるいは文化的に圧倒的な影響力を日本語圏(日本国が、ではない)が持ち、英語圏を越えなければならない。「これからは日本語」と世界のビジネスマンに理解され、日本語の教育システムが世界中に整備されて、日本語のレベル1やレベル2の話者が、英語以上に世界中に増えるまで影響力を維持しなければならない。日本は1980年代から一時的に世界一の経済大国になって、しかも未だに上位を維持している。それでも英語が確固たる世界の中心と言うことは、日本語を世界標準にするには、その程度の偉業では全く足りないと言うことだ。

「日本」”JAPAN”から”NIPPON”へ・・・経済は停滞しても文化浸透は止めないでも書いたことである。しかしもっと高い目標と言っていいだろう。魅力ある「日本文化」が世界のスタンダードになれば、同時に日本語も次のリングワ・フランカになる。そのためには繰り返すが、魅力ある日本を世界中の人にもっと理解してもらう必要がある。理解してもらうためには日本の中で日本語をしゃべって日本人にビジネスをしてはいけない。世界の中で世界の言葉をしゃべって世界中の人と対面しなければならない。

皮肉なことに、いま世界中の人との対話を最も効率的に行う方法とは、リングワ・フランカとしての英語をしゃべることなのだ。JMMのfrom 911/USAレポート / 冷泉 彰彦の最新刊(メルマガ本体は発行済みだがバックナンバーは未公開)でも言われていたのだが、結局世界全体への話しかけは、現状英語でするしかないのだ。

いや英語はあくまで1スキルに過ぎなく、中身の方がずっと重要だと言われるだろう。そのようなコメントも前回のエントリでいただいた。しかしL.starの日本の外の経験からすると、日本文化は大変優れていて、欧州人がそこから学ぶべきことは本当にたくさんある。他方日本からのアウトプットはあまりにも少ない。

確かに英語など1スキルに過ぎない。でも、それがボトルネックになっている場合だけは例外で、それ以外の全てのスキルを合わせたより重要である。もちろん100%ではないだろうが、今重要なキーワードであることは間違いないだろう、当然、今後コミュニケーションが増えていくことでボトルネックは当然移動して、それとともに英語の重要性は薄れる。英語をしゃべれるようになるのが今必要なのと同様に、英語を重要視しなくするタイミングも重要である。

ちなみに外国語をしゃべらなくて済む方法はもう一つある。それは「完全な鎖国」である。全く正反対に見えるが、世界の境界と文化圏の境界を一致させる、と言う点で完全に同じである。ただ広いかせまいか、という重要な点が違うだけで。

OfficeFolders theme by Themocracy