BlogコメントはBlog主に、はてブコメントははてなユーザに - そしてtwitterはみんなが対等に

By , 2009 年 6 月 23 日

彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらない で、真理に基づいて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしようか。納めるべきでしょうか。納めては ならないのでしょうか」。

イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。

彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。

するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

新約聖書マルコによる福音書12章14~17節。訳はhttp://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/mark.htmより引用。

数回の技術からずいぶん寄り道したエントリを書きながら、またはてなブックマーク – なぜ「はてブは一方的になりやすい」か – | …でいただいたコメント(大半は一方的な批判者とは程遠いすばらしいコメントである)を改めて読み返しながら、コミュニケーションというものに思いをはせている。Web3.0とL.starが便宜的に呼んでいるものが、コミュニケーションの改善であるなら、今を理解しつつこの先を考えるのは、その次で何かを作り出したいと思うなら正しい方向に進んでいるのだろうか、と考えつつ。今日書いているエントリもそういう意味では公開ブレインストーミングであり、読者の大半にとっては目新しくは無いだろうことは自覚している。

わいた疑問はこうだ「なぜはてブコメントは大量につくのに、うちのコメントページはちっとも増えないのか」むろん、このページなんて対して有名でもないのでコメントががんがんつかないのは当たり前である。が、それでもHNS->tDiary->mixi->Wordpressと移り行く7年間でコメント総数は、Wordpressの集計機能によると獣の数字666を若干超える(もちろんspam除く)ぐらいある。ところがこのドメインに付きだしたはてブはせいぜい年末スタートだというのに、延べ200近く(正確に計算していないので多少ごまかしている)もある。密度の違いとかアクセス数とかいろいろあるにしても、いったいこの差はどこから生ずるのか。
またTwitterはなぜblogより爆発的にはやったのか。Tumblrは何がいったい受けていて、何を好き好んでL.starのエントリをreblogする連中が延べ数十人もいるのか。簡単だからか?文字数が少ないからか?これは、2006ぐらいからWebの世界では引きこもりがちだったL.starにとっては今まであまり考えたことの無い話題だった。

もうひとつは、前々回のエントリに対するこのはてブだ。自分は確かにコメントに対するコメントはダサいと思っているのだが、それは具体的にどう説明可能なのか。

  • koma-tak koma-tak 『コメントに対するコメント欄は、たぶんあったとしたら最高にダサいから駄目だろう』どうダサくなるか教えてほしい。UI次第だと思うのだけど。増田のツリーみたいになるんだよね。自分はあった方がいいと思いますが 2009/06/20 CommentsAdd Star

そして考えた末の今のところの結論が表題だ。掲示板も、ブログも、プライベートでないチャットも、法的にはさておき気持ちの上では(以下同様)所有権はアプリケーション自体や、チャットサーバの管理者、あるいは誰のものでもないように思われる。たとえば掲示板やチャットのログはパーソナライズされない。ブログコメントは、ブログ主に渡すような感じになって、サイトをまたがって参照するのは骨だ。/.のコメントはまだパーソナライズされているほうだが、コメントはたいていの場合文脈に強く依存しているから、そのものだけ抜き出してもそんなに面白くないし、なんとなく/.にコメントをあげちゃった感がある。

ところが、はてブははてブユーザ本人のものであり、本人が自由なコメントをつけられる。Twitterの他人のエントリに対するコメントはもちろん文脈が強く出ることもあるが、やはり個人のものである。Tumblrにいたっては、他人のものであろうがなんだろうが自分の下にコピーを作成する。これらはすべて元作者ではなく、ユーザのものである。ツリー構造が見えないのも特徴である。ツリー構造はつながった全体をひとつにしてしまい、所有者を不明瞭にする。

つまり驚いたことに、いつの間にかコメントの所有権が移転しているのである。その始まりはおそらくトラックバックにあったのだろうと思う。つまり、自分の所有サイトから他人の所有サイトに対する、所有したままのコミュニケーションの標準化が発生した。これはコミュニケーションを大きく増加させた。好き好んで他人のサイトにコメントするのは一部の物好きだけであるが、自分のためのコメントを残すためならもっと増えるだろう、というのはすでに証明されていると思う。実際Tumblrやはてブは、どのようなサイトや文面に興味を示したかから、その人の趣向や考え、人となりなどをある程度読み取ることが可能である。結果「だれそれのはてブ/tumblrは面白い/つまらない」という事象は生じる。ブックマーキングやリブログが芸術になる瞬間である。

そして、もともとBloggerに携わっていたTwitterの人たちは、ここを理解してTwitterを作ったのだろう。つまり目指したのは巨大なblog同士だけでなく、もっとカジュアルなコメント者と被コメント者の対等性である。対称になれば、相乗効果によってより多くのコミュニケーションを生み出す。ようやくWeb2.0の流れというのが頭の中で一本につながった感がある。当然その次はより所有度と密度の高いコミュニケーションである。Facebookはパーソナライズされた自己宣伝ポータルとしての機能を果たしているといえないだろうか。Google Waveも、Opera Uniteも、その流れに乗っていないだろうか。

そこで「はてブが一方的(勘違いしないように繰り返し言うと、この一方的は双方向コミュニケーションが難しい/ないの意味である。)」なのは、本来一方的にコメント所有権のあったブログからそれを奪ってしまったことがひとつの原因なのかな、と思う。そしてもうひとつは、元ページとはてブにはツリー関係が生じていることだ。このツリー関係はそもそもはてブが主のユーザからは微妙に認識しずらいので、また誤解も生じやすい。ツリー関係が無い対等さをもち、なおかつ所有をはっきりできることがはてブの強みなら、コメントに対するコメントツリーは無粋である。増田のツリー構造はあくまで匿名だから成り立つのだろう、と。

だから今後ヒットすべき新しいシステムは「コンテンツをつくったものはコンテンツ作者のものであること」「ヒエラルキーを生じさせない、お互いに等価に近いコストでコミュニケーションを生じさせられること」の2つは持っていないといけないだろう。そしてその上にいったい何を加えられるかだ。

正しいかどうかは問題ではない – 通じるかどうかだ

By , 2009 年 6 月 22 日

週末が忙しかったので前回のエントリ

なぜ「はてブは一方的になりやすい」か –

と、そのはてブ、あるいはメタブを読みながらどうやって返答したものかと思ったりしつつしていたら、ところどころわかってないと思われるエントリも出てくる。たとえばこれ。

  • Nagise Nagise 根本的に誤った主張は、均質に双方向なメディアで議論しても一方的に非難される。その際、怒鳴って無理を通すことも可能だが、それができることはむしろマイナス要因。 2009/06/19 CommentsAdd Star

なぜか主張とまったく関係の無いことをこんなところで主張されている上、今日気づいたらうちを元ねたにしたエントリまである(ここははてブではないので、ピンバックされない)

一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ.

一方的な非難なんてめったに存在しない。昔AoEの対戦を仲間内でやっていたが、Free for allで戦うときのコツは、全員味方だと考えることだった。うまく行動すれば、みんな勝手に「組んでた」と勘違いしてくれるからだ。おかげでそれほどうまくなかったにもかかわらず、FFAの成績はまずまずだったと記憶している。

・・・と読んだら、そういう話ではないらしい。

Nagise氏の主張が根本的に間違っているのは、分類の仕方だ。

正しい主張をしたと仮定して「これはひどい」と言われるのはどのような原因が考えられるだろう?

  1. 読んだ人がみな馬鹿で主張を理解できず「これはひどい」と言った
  2. 読んだ人がみな結託してネガティブコメントを書いている
  3. 読んだ人のうち最初の数名がネガティブコメントを書いたため、叩く空気ができ、同調圧力で皆が叩いている

ここからして一番ありそうなのが抜けている。それは「読んだ人は馬鹿ではないが、主張を理解できなかった」である。たとえばこのエントリが典型的な例である。

L.starは今回、一度もどちらが正しいかという話をしていない。どちらでもいいのである。一方的だというのは、双方向に働かない(働きづらい)という意味だからである。ところが、一方的の意味がいきなり変わって、一方的な「攻撃」と補完されている。だから文面の内容は「はてブは一方的=はてブユーザははてブを通してページを一方的に攻撃している」と摩り替わる。例として出てくるのは「これはひどい」である。

かくしてL.starは「一方的」という単語とはてブを組み合わせるとこのような補完をされうる、という教訓を得た。問題は自説が正しいかどうかではない。通じるかどうかである。そのためにはより正しい言葉を選び、より適切な概念に立脚して文章を書かないといけない。あるいはそれでも補足しないといけない事態になりうる。

あるいは、まったく通じない事態になるほうが多い。通じないのは行間が読めないからで、読めないのは読める素養がないからである。読める素養は勉強、主義主張、経験、時代などから培われるが、そのバックグラウンドが異なると読めない。行間を勝手に補完してくれることを期待する向きには「なんでそこに食いつくの」になり、補完できないほうでは「わかりもしないのに何を言う」ということになる。あるいは「空気」といってもいいかもしれない。

たとえば去年の「10年は泥のように働け」発言を取ってみよう。これは50代ぐらいにとっては非常にわかりやすい概念である。かれらの生きた時代は、これを肯定しないと生きていけない時代だったし、それに見合った褒章があとであるだろうという事実を共有できた。ところがL.starのようなロスジェネ世代の大半は、あとで報われる可能性が低いことが骨身にしみているから、この意図を理解できない。さて、正しいのはどっち?正解は「時代による」としか言いようが無い。

コミュニケーションパスが拡大し、人口も増えていく中で、旧来の空気はどんどん時代遅れになりつつある。もちろんこれは常に起こっていることであるが、スピードを上げている。そんななかで、新しい「空気」がきっと求められているのだろうなと思う。そこには正義はどこにも無い。よりたくさんの人間が同意形成をできるかどうか、ということだけが問われるだろう。

なぜ「はてブは一方的になりやすい」か –

By , 2009 年 6 月 18 日

はてなブックマーク – くたばれ一方的な批判者 – ネットだけの問題じゃない | 独り言v6.

から

otsune otsune これ分かんないなぁ。idも明記してるし。もしかしてblog言及も「一方的」なのか?→はてぶやソーシャルブックマークは残念ながらあまりに一方向的になりやすい嫌いがあるから

と言われて、まあ本論とは遠いところなのでなぜここに? とはいえ最初にこれを見たときには不適切な表現だったかな?とも思えたので、訂正するかご説明するか、と考えた。そして何かしようとして、はたと気づいた。やっぱりはてブは一方的になりやすい。正直に自分が思った「一方的になりやすい理由」をシンプルに言うと「はてブコメントに反論するってどうすりゃいいの?」ということだ。

これがIRCなら捕まえてprivで話し込めばいい。twitterならreplyすればいい。blogならコメント欄かトラックバックである。
これが2chならスレに殴りこみにいけばいい。匿名か記名かは関係が無い。ふたばチャンネルだったらスレが2時間で消えるのでその点はちょっと難しいが、そもそも批判があっても消えるまでに気づける可能性自体低いのでさしたる問題ではない。

翻って今回の場合は?メタブ使うの?自分のIDでコメントつけるの?エントリに補足書くの?今回みたいに新しくエントリ立て直すの?今回はこうやって反論エントリ書いているけど、結構労力を使っている。一方でブクマするコストは大変に低い。ちょちょいのちょいである。

と言うわけで

  • はてブによる意思疎通は、最初の一回目(ブックマークするとき)のコストが低いが、それ以外はやや高く、対称でない。
  • コメント者と被コメント者との意思疎通手段が標準化されていない。

という2つが「一方的になりやすい」と言った理由である。ただ、改めて考えてみるに昔のWebってこんな感じに一方的なメディアであり、むしろ意思疎通手段がしっかりしていることこそ例外的なのかもしれない。そういう意味では必ずしもはてブを「駄目だ」と貶めたいわけではない。ただ、参入できるとしても障壁が高いな、と感じるだけである。実際、かなりのブクマと批判を受けて丁寧な反論をしたエントリと言うのは、かなり苦労をしているように見える。ツールを使うと言う行為には、常にツールにそって考えることを求められる。だから、ツールの向き不向きに応じて、その影響も変わってくる。メールは一方的に送りつけるものだから、より丁寧に文章を書かないとけんかになりますよ、と同等の話だと思うのだが。

ただ、じゃあこれを改善して、コメント者と非コメント者間の意思疎通と合意形成を支援するシステムの標準化を日本で、というとこれが難しい。

  • 繰り返すが記名無記名の問題ではない。また顔が見えるかどうかもあまり関係が無い。全員匿名のチャットでも有意義な意思疎通はできるし、全員肩書きつきの会社の会議でも、無駄な攻撃に終始しかねない。
  • モデレーションは/.Jが証明したようにうまく働かない。(いや、実際にはそれなりに働いていると思うが、それを納得せずに荒れる人が多いのが問題)はてなスターは案外絶妙な着地点ではないかと思うが、意思疎通システムではない。
  • コメントに対するコメント欄は、たぶんあったとしたら最高にダサいから駄目だろう。メタブはその点クールだと思うのだが、シーケンシャルな議論にはなりづらい気がする。不特定多数の意見集約には、それでも結構役に立っているのだろうが。
  • コストを平等にしたければブクマのコストを上げればいい? 今回の改善としてはまったくの正論だが、はてブのよさは行動コストの低さにあるのだから、自殺行為である。

結局またも元はてぶに戻って

  • mcatm mcatm id:otsune はてブに関して言えば、発言を上書きしていく方法でしか議論を発展させられないからじゃないですか?はてブが必ず駄目とは思わないけど、有効なのは一言目だけな気がします

というのを受けて、シーケンシャルな発言ログを取れるようにするのが一番いいのかもしれない。しかしそれでは単にtwitterのチャンネル名が既存URLになっただけになってしまう。うーむ、難しい。

まあ今回の議題がややこしい。はてブって一方的になりやすいよね?という意見に対するはてブコメントに説明するんだから、うまくいってしまう と一方的ではないことを証明しかねない。説明に失敗すれば自分の意見が正しかったことが(少なくとも自分にたいして)証明されるが、失敗しているからよろしくない。だから結論は最初から「苦労してこれだけ説明しましたけどあまりうまくいきませんね。」に落とし込むしかない。

このエントリははたしてちゃんと皆さんを導かれる結論どおり煙に巻けたでしょうか。あんまり自信ないけど。

くたばれ一方的な批判者 – ネットだけの問題じゃない

By , 2009 年 6 月 18 日

前に

10000時間積み上げるだけの簡単なこと・・・本当に?

という、天才にまつわるエントリを書いた。10000時間じっと何かをし続け、立派な何かになる(以下天才)というのはものすごく大変なことである。Tumblrのどっかで、「10000時間なんてたった417日じゃないか!」という批判的突込みを受けてかちんときたが、まあ捨て置くことにした。L.starにもようやく批判される程度の知名度が出てきたと喜ぶべきところだろうし、ネットには眠らず飯も食わず1年以上何かに専念できる、化け物のような人間が本当に存在するかもしれない。あるいは延々批判し続けているネット評論家なら、ネット評論家ならきっとやってくれる!

いうわけで今回の話はネット評論家というか、ネット上における批判者についてである。

「エスパー魔美 – くたばれ評論家」

が、ずいぶんTumblr界隈とかで話題になっているようである。「批判にへこたれるようなやつは所詮真の天才ではない」というその結論は確かにある種正しい(批判に弱い、というのは10000時間の実践に対して大き目の阻害要因である)が、それが成り立つのはミクロ的部分においてであって、ネット全体に成り立つようなマクロ的な結論ではありえない、と思う。

すごい暴論を吐かせてもらえれば、「他人から酷評されたのでもうやる気がなくなった」と泣き言をいう人間は、もともとたいした創造性を持たず、自分の中でそれ以前に限界を感じていたのではあるまいか。自分の限界を認める口実として、他者からの酷評を上げているのだと思う。

まあそういう人間が少なからずいるのは確かだろう。しかし、たとえば理不尽な酷評が多少なりとも減ることで天才の数が増えるのなら、それはメリットなのではないか。社会全体にとしては、有能な人材は、需要を大きく超えないかぎり多ければ多いほうが良い。だから、有能な人材の育成に対する阻害要因は少なくできるなら少ないほうがいいのだ。

批判者あるいは評論者というのは育成に対してプラスにもマイナスにもなりうるから、願わくはプラス、せめて最低限のマイナス程度に存在すべきではなかろうか。

繰り返しになるけれど、そういう人が酷評されたために創作活動からリタイアしてしまったとしても、いずれは他の誰かが必ず彼が行うはずだった以上の創作物を生み出すと思う。

で、聞きたいのは「いずれ誰かが行うだろう」ということによる時間損失をこうむるのは誰か、ということだ。われわれである。「誰々がいなくても○○はいずれ発明された」はよくあるテンプレートだが、彼/彼女が生み出したことによって、時間的には短縮できたのだ。あるいはもっと時間がかかったのかもしれない。

エスパー魔美の話の大本エントリ、くたばれネット評論家。にある藤子不二雄の考えは実際的であり、自分に自信のある人間にしかできない行動である。これは本当に見習うべきだと思う。

阻害要因についてはたとえば「野球選手における怪我」などというようなトピックに置き換えたらもっとわかりやすいと思う。過酷な練習で怪我をして選手生命を絶たれるような自体は少なければ少ないほどいいと思わないだろうか。元ジャイアンツの桑田真澄選手が気が付くという面白いエントリを書いているので見ていただきたい。目先の利益に目がくらんで成長阻害要因を増やすのではなく、全体最適化をしましょうよ、という話なのだ。何もネットに限った話ではない、今の日本に腐るほど転がっている。

あとは結局、批判者自信も何らかの表現者なのだから、それに対する批判もあるべきであろう。だからL.starは言いたい。「全体の利益にならないような批判し かできないなら、そんな自己満足はやめてしまえ」と。阻害要因にしかなれないなら退場願いたい。ネットの掃き溜めからすらも。もっとも、議論というのものを喚起するところとして、はてぶやソーシャルブックマークは残念ながらあまりに一方向的になりやすい嫌いがあるから、自己満足化しやすい傾向があるのかもしれない。その点は注意して使わないといけないのかもしれないし、進化の余地がある部分とも言えるだろうが。

まあしかし、現在にはそういう双方向メディアはまだ普及していないのだから仕方が無い。とりあえず現状では、L.starはブログを書いた。はてぶコメントに批判エントリが殺到した。L.starは怒った。それでおわりでいいじゃないか。今など批判エントリすら見ない状態なのだから。

Web3.0はもうすぐそこまで来ている – そう呼ぶべきかどうかは別の問題として

By , 2009 年 6 月 16 日

-Wolfram|Alpha
単語を解釈して、ほしい情報を集約して持ってきてくれる画期的な検索エンジン。

-Microsoft Bing
LiveSearchの新バージョンとはいえ、Desision Engineだの銘打っており、検索より踏み込んだ内容を目指している。

-Google Wave
XMPPというIMベースのプロトコルをベースにしながら野心的にいろいろ組み込み、チャットからWikiぐらいまでをすべてリアルタイムに統合しそうな勢いの新「プラットフォーム」

-Opera Unite
今日初期アルファ版が登場した何か。Operaをベースにファイル共有だのメディアプレイヤーだの付箋紙だのチャットだのを統合したやはり新プラットフォームとでも呼ぶべきもの。自分自身をサーバ化し、P2Pに近い環境を構築する。

ここ一ヶ月ぐらいに立て続けに発表されたものだけれども、どれもインパクトが強い。上2つは従来の検索エンジンと同じインターフェースを持ちつつも、検索エンジン以上の何かと主張しているものである。下の二つは、あくまでブラウザをベースとしつつも、新しいコミュニケーションを提案するプラットフォームとでも言うべきものだ。もちろんこれだけではなく、FacebookやTwitterの流れも含めて、新しい方向に向かいつつあるという感じがするのだ。もちろん、Webなんて常に進化しているわけだから、個々の技術を「なんだ、こんなの今までずっとあったもので新しくもなんともない」というならそのとおりだろう。しかし、個人的には今現在普及の閾値を超えて、そういう方向への実際に役に立つ概念になりつつある、と感じるからこそ、こんなエントリを書いているわけである。

何が起こっているかというと、

- ソフトウェアは、より人間の意思決定を支援するように動いている
- 古いアーキテクチャのコンテキストは生かしつつ、よりよい再実装によって置き換えられる
- よりリアルタイムに、より密に統合。

なんと驚いたことに、Webは再発明されつつある。過去の経験を踏まえて。これは2ヶ月前にはまったく思いもつかなかったものだ。

こう、感覚的に思っていたのは、Webは集約するか発散するかどちらかだろうか?という点だった。特に顕著なのはクラウドである。クラウドはまさにインフラの超統合である。当然反発の声が上がるだろうし、そもそも超統合が効率的かどうか?という疑問も出てくる。しかし、まさか両方の方向から攻めてくるとは思いもよらなかった。「クラウド化」とは「ユーザーが、実体がどこにあるか気にせずに使える」ということであり、そのためには集約されたサーバは、あっても良いしなくてもいいのだ。

最近強くGoogle Waveに印象付けられたからというのもあってOperational Transformationを勉強したりしていたけれど、時代のスピードは予想を超えて速いようだ。となると今回の大変革には、またもや乗り遅れてしまった感がある。次回こそは、その末席でもいいから世界を変える側にいたいな、と痛切に思う。そのためには、勉強しなければいけないことがまだまだたくさんある・・・

WordPress2.8

By , 2009 年 6 月 11 日

WordPress2.8がリリースされたので、自動アップデート対象になった。颯爽とインストールする。Header Cleaner導入で劇的に軽くなったけど、より軽くなった気はしない。

相当量のChangeLogを読み解きつつ「あー、これうれしいのはないな」と思いつつ、ユーザとはそんなものだよな、と自戒した。

残念じゃない日本ってどんなのか、考えたことがありますか? - みんな、自分に自信を持とう

By , 2009 年 6 月 9 日

帝国の中心で自由主義を夢見る先に – 雑種路線でいこう.

に大変な感銘を受けたので、いろいろ考えたが、エントリを起こすことにする。これに限らず、この一週間ほど梅田望夫氏の「日本のWebは残念」発言が話題になっている。

まあ個人的には、このインタビューそのものはほうっておいて良いと思っている。というのも、もはや彼は別に日本のWebをどうこうする存在ではない。その資格は、彼がはてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎると発言した時点で失ってしまった。すくなくともL.starの心の中では、彼の発言は「自分が誰に向かって話をしているかまったくわかっていない」ということを自白した以上でも以下でもない。

梅田氏はあの発言時点で日本のWeb2.0をリードしていくこと(と梅田氏が信じることをすること)を「投げた」んだとは思う。「日本の%nは残念」というのが結構な%nにおいて成り立つのは、むしろおおむね同意するところである。ただ一点、投げないなら彼はそれをああいう形で批判すべきではなかった。それだけである。その後の行動見ると「投げた」んだろうし、先のインタビューもその延長線上に過ぎない。L.starも同様の投げ方は何度もやったことがあるので良くわかる(ぉぃ

だから、こう問いかけたい。「あなたは日本のWebが残念だというが、残念でないWebとはどのようなものですか。残念じゃない日本ってどんなものですか」と。梅田氏の著作等々をしっかり読み込んだわけではないが、彼がこれに正しく答えたかというと疑わしい。私が見たのは「シリコンバレーはすばらしい。然るに日本はどうか」という、とある具体例ばかりであり、この2つの本当の本質的な差、そして日本を残念でない世界にするための方法論という部分には行き着かなかった。

翻って、楠氏のエントリはおおむね日本ムラ社会に対する恨みつらみで進行していく。まあL.starの経験から鑑みて、事実無根ではないし、それよりもどす黒そうな話まで出てくるので、恨みつらみというより分析といってよい。そして結果として楠氏の希求するものへとすべてつながっていく。これを読んだ人の感想は大きく二通りに分かれるだろう。NPS(No Problem Syndorome)を発症して現状の日本に苦言を呈する氏を攻撃するか、彼の指し示そうとする道に興奮するか。L.starはもちろん後者なのだが、しかし指し示す道はあいまいかなと感じる。すばらしい道に興奮しながらも、正しく指し示されていないために非常にもどかしいものになってしまっている。いや、楠氏は言葉にこそしていないが、氏がその道を理解していることは想像に難くない。梅田氏も同様に理解しているであろう。なぜ指し示せないのかと思ったが、それは単に攻めている方向が違うんじゃないか、という結論に達した。

正直、日本が物理的に残念だと思ったことはない。企業が腐敗し、政府が馬鹿でも、根源的な問題をいっぱい、それでもいまだに最高の国家のひとつである。というかほかの国家も同様にレベルが低いというべきなのであろうが。そんな最高の国家がシリコンバレーに勝てないのは唯一、心構えではないか。みなぎる自信ではないか。成功するために必要な「空気」とは何か、ということを知ることではないか。

これは、シリコンバレーではなく、バブル前の日本の大企業社会にもおそらくあったと思う。ただ、人間は本質的に自信がない生き物だから、どうしてもその成功を自分自身の行動に結び付けたがるから、その何かあいまいなものだけを抽出して語ることができないだろう。

結局のところ、ムラ社会的な行動力学は、たいていは自信の欠如から生じている、とL.starは考えている。自分に自信があるなら、無駄に他人を攻撃する必要も、利益誘導する理由も、感情論で相手を否定する必然性もないのだ。日本人の根源的な自信の欠如を補うことこそが、残念じゃない日本への一番の近道ではなかろうか。

であればこそ、知っておかなければいけない大変重要なことがある。これは(日本スポーツにおけるメンタルトレーニングの権威である)福島大学の白石豊先生が講演でおっしゃっていたことなのだが、自信とは実績より前に醸成できるものだし、そうすべきである。階級が上がれば行動も自然についてくるというが、それもその証拠のひとつでもあろう。だから、まず自信を持つことができる。必要なのは自信を一方的に打ち砕くような、日本的理不尽さを無視することである。

自信を得るためのもうひとつの方法は宗教であろうが、宗教には救済と再生いう側面がある。罪を赦され、新しい一歩を踏み出す。今の日本に必要なのは、この救済と再生ではなかろうか。攻撃するわけでなく今までの悪い習慣を赦し、新しい方向を定義してそこに向かう力にできる。L.starを含めた多くの人間にとって、自分の過去というのは自分の過去であるということだけで正しいものであるはずだ。それを改めて見つめなおし、良い方向に向かうためには、まず自分を赦さないといけない。社会を見つめなおすなら、社会を赦さないといけない。

あらためて「救済」と「再生」というキーワードから総括に向かうと、梅田氏も楠氏も「再生」については強くメッセージを発している。でも、彼らの言葉に「救済」はないのではないか。「救済」なくしては本当の再生には向かわない。灰にしてしまわない限りはね。だから彼らのメッセージからは(まあL.starのメッセージからもそうなのだろうが)「社会を灰にしてしまわないと」と思ってしまう何かを持っている。だから灰にされると困る人には伝わらない。意見は割れる。そういうことだ。

いやなんでL.starがそんなキーワードにこだわるかというと最近ミュンヘンでワーグナーの「パルジファル」を見て、彼の何かにいろいろと感化されたからなんでしょうけどね。こういう言葉を抑えつつ、世俗的な意味での宗教的なものとは一線をおいて、純粋に何かを語っていきたいな、というのが最近のテーマだったりする。

拙作Roundtableは、なぜGoogle Waveまでたどり着けなかったか反省した

By , 2009 年 6 月 4 日

昔、clockload名義でRoundtableというチャットクライアントを作っていた。clockloadの閉鎖とともに配布終了していたが、最後にコードを書いたのは 2002年のことだと思う。7年前のことだ。これはJavaを使って、チャットなど、一つのワークスペースを共有するもので、かなり柔軟なモジュラー形式にしていたことが自慢であった。もっとも、その柔軟性を使うことはほぼなかったため、無駄といえば無駄だったが。

ところが最近Google Waveという同様のツールが出てきて世間をにぎわせている。触ったこともなければちゃんとデモも見ていたわけではないので正確なことはいえない。が、幾多のちがいはもちろんあれど、大筋で似たようなことをやっているなと感じた。Roundtable自体、せいぜい10000行にも満たないJavaアプリケーション、実質1ヶ月ぐらいで書いたもので、特にWaveletが多数動作している部分の設計は似ているだろうと想像に難くなく、新ためて自分の設計の正しさを思い知ったしだいである。

一方で、RoundtableはGoogle Waveになれなかった。あれで1ヶ月なら、1年まじめにやれば近い部分までたどり着くことは可能だったかもしれない。今日はなぜたどり着けなかったか考察しつつ、自戒としたい。

-同じだったもの

クライアントサーバ型であるとか、データ差分を利用することとかが非常によく似ている。またXMPPをベースにしたWaveのプロトコルは、実際にかなりRoundtableのプロトコルと似ている。waveのほうがシンプルに絞り込まれていること、RoundtableはSerializationに頼りっきりな100%Java依存なところとかがまあ違いである。

どちらも基本的にデータは差分であり、差分から全体を構成するところもそっくりである。そのようにすることで、ヒストリーの保存や再生もかなり簡単に可能である。

プロトコルの構成から見て、コアとWaveletの関係もたぶん予想の範疇である。これだとWaveletは通信をあまり意識せずに書け、しかも依存性も低いだろう。

- 異なる競合性解決

この種のアプリケーションで面倒なのは、同時に同じ部分を編集しようとしたりしたときの解釈である。Roundtableでは、これは解決していなかった:) なにしろ、同時にいじる人数は少ないので、さほど工夫をする必要もないのである。それゆえデータはすべてのクライアントノードでばらばらに持っていた。これは比ゆ的にいうと、SQLデータベースにおけるクエリベースのレプリケーションに似ている。ただし、この場合はSQLよりもずっと競合は少ない点は救いか。その先として考えていたのは、各アクションに対して必要なだけpessimistic lockをとらせ、取れた後行動可能にさせるというものだ。今考えると、デッドロック時の挙動が怖い。そして、作ったときには考えていなかったが、クエリベースの不安定さというのは、2004年ごろから強く身にしみて学ぶことになる。

次にWaveだが、InfoQの記事のGoogle Wave アーキテクチャに詳しい。Waveの核はOperation Transformationというものであるらしい。これは単一のエンティティをサーバ上に用意する共有型である。こいつのなにがすごいかというと、UIのような高速さが要求される部分に対して、すばやく文字単位で更新を受け入れつつ、しかも最終的につじつまを合わせられるようなトランザクションモデルを提供していることだ。

一連の動作に対して、まずxidをすばやく取得に走る。取得は非同期で、運よく受け入れたれた場合はその更新をサーバに伝え、さらにその間の更新についても再び同じように問い合わせる。最後にサーバから最終バージョンへの差分が投げられて、これでクライアント間の整合性もばっちりだ。

これに二年かかったというのもうなずける。リカバリーだのなんだのを含めると、このすばやく反応可能な、完全なトランザクションモデルを実現できるサーバプロトコルは、ちょっとやそっとのしろものではない。データモデルこそ単純だが、BigTableよりも高度なことをやっているのではないかと思ってしまう。

- 洗練されたUIと機能

そしてもちろんGoogleの18番、きっちりと機能とUIを作りこんでいるところである。RoundtableはL.starの知りうるSwingテクニックを全部盛り込んだ野心作であったといえるが、一方でGoogleのUI作りこみはそんなL.starのプライドなどゴミくずにしか見えないようなクールなのを作っているので定評がある。サーバに盛り込める機能といい、それに対するチューニングといい、彼らのほうが数十段よい仕事をしているのは間違いないだろう。

こんなところだろうか。もちろん知名度とかそういうのは、正直言ってもともと天と地の差があるので、同じように作れたとしても有名になったとは思えない。しかし、それ以前にやはり大きな差もまた感じてしまった。L.starはいったい8年間、どれだけ時間をどぶに捨ててきたのか考えてしまう。

というか、まさか自分が昔やったトランザクション技術と、UI技術がこんなところで融合されうるとは、到底考え付かなかった時点で負けなのだろう。素直にあらためてRoundtableを引っ張り出して、Operational Transformationもどきを実装するとか、そういう勉強から復帰すべきだろう。

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