日本人が英語をしゃべらなくて済む方法

By L.star, 2010 年 7 月 5 日

なんかいろいろ書きたいネタがたまっているがなかなか書く時間がとれなかったりして難しかったりする。オランダは今年はずいぶん暑く(といっても日本の夏に比べれば雑魚なはずなのだが)疲れているのもあるのだが。

ところで、今回は日本人はどの程度英語をしゃべれるべきかからのアップデートである。ここではLilacさんやelm200さんにならって、日本人のかなりがレベル1ないしは2の、いわゆるリングワ・フランカとしての英語をしゃべるようになるべきだ、という主張をしているわけだ。もちろんそれには合理的なものも感情的なものも含めて、いろいろ反論がある。

しかし、リングワ・フランカなどという単語を出すからには、ここでいう「英語」はたまたま世界共通語になっているのが英語だから英語というのであって、それ以上でも以下でもない。世界標準が英語からタガログ語に移行すれば「日本人はタガログ語をしゃべるべきだ」という論調になるだろう。

そして「日本語がリングワ・フランカになるなら、日本人は外国語など覚える必要がない」という論が出てくるのも当然だろう。これは全くその通りだ。そうなると世のエリートビジネスマンは日本語をしゃべるようになり、彼らの不利な立場で、我々が堂々と有利なことができるようになる。全く素晴らしい究極の解決策である。

ただ、これを実現するのは相当大変だ。まず、経済的にるいは文化的に圧倒的な影響力を日本語圏(日本国が、ではない)が持ち、英語圏を越えなければならない。「これからは日本語」と世界のビジネスマンに理解され、日本語の教育システムが世界中に整備されて、日本語のレベル1やレベル2の話者が、英語以上に世界中に増えるまで影響力を維持しなければならない。日本は1980年代から一時的に世界一の経済大国になって、しかも未だに上位を維持している。それでも英語が確固たる世界の中心と言うことは、日本語を世界標準にするには、その程度の偉業では全く足りないと言うことだ。

「日本」”JAPAN”から”NIPPON”へ・・・経済は停滞しても文化浸透は止めないでも書いたことである。しかしもっと高い目標と言っていいだろう。魅力ある「日本文化」が世界のスタンダードになれば、同時に日本語も次のリングワ・フランカになる。そのためには繰り返すが、魅力ある日本を世界中の人にもっと理解してもらう必要がある。理解してもらうためには日本の中で日本語をしゃべって日本人にビジネスをしてはいけない。世界の中で世界の言葉をしゃべって世界中の人と対面しなければならない。

皮肉なことに、いま世界中の人との対話を最も効率的に行う方法とは、リングワ・フランカとしての英語をしゃべることなのだ。JMMのfrom 911/USAレポート / 冷泉 彰彦の最新刊(メルマガ本体は発行済みだがバックナンバーは未公開)でも言われていたのだが、結局世界全体への話しかけは、現状英語でするしかないのだ。

いや英語はあくまで1スキルに過ぎなく、中身の方がずっと重要だと言われるだろう。そのようなコメントも前回のエントリでいただいた。しかしL.starの日本の外の経験からすると、日本文化は大変優れていて、欧州人がそこから学ぶべきことは本当にたくさんある。他方日本からのアウトプットはあまりにも少ない。

確かに英語など1スキルに過ぎない。でも、それがボトルネックになっている場合だけは例外で、それ以外の全てのスキルを合わせたより重要である。もちろん100%ではないだろうが、今重要なキーワードであることは間違いないだろう、当然、今後コミュニケーションが増えていくことでボトルネックは当然移動して、それとともに英語の重要性は薄れる。英語をしゃべれるようになるのが今必要なのと同様に、英語を重要視しなくするタイミングも重要である。

ちなみに外国語をしゃべらなくて済む方法はもう一つある。それは「完全な鎖国」である。全く正反対に見えるが、世界の境界と文化圏の境界を一致させる、と言う点で完全に同じである。ただ広いかせまいか、という重要な点が違うだけで。

事業逆仕分け構想 ― やるべきことも公開の場で議論を

By L.star, 2010 年 6 月 30 日

ここ最近世を賑わせていたのは「はやぶさ」帰還とサッカー日本代表の大活躍だ。サッカー代表の方は残念ながら決勝トーナメント初勝利はならなかったが、海外でのワールドカップ初勝利を含め、十二分の大活躍だったと思う。両者の関係者に、おめでとうそしてありがとう、と申し上げたい。

ただ同時に気になるのがそれらの成果が大変誇らしいものであるのは間違いないが、それ故に「はやぶさ2に予算を」とか「岡田監督続投を」とかという意見が散見されることである。前回の成果が誇るべきものであったことと、次回も同じことをすべきか、というのは全く別で、議論すべきは「次回の行動として合理的か」かどうかである。単純なポピュリズムでこういうことを決めるということは、してはならないことである。

岡田監督は辞任されると言うことだし、どうせL.star自体もにわかファンに過ぎないので偉そうなことをいえたものではない。一方一応理系出身でもあるからそれなりも興味もあるはやぶさ2は、あくまで次回の行動の合理性を考えるだけでも、実際やるに値すると思っている。しかし松浦氏のはやぶさ2にむけて:最後の障壁は身内にあり…かとか月で公共工事をしたいのかあたりを見ていると怪しいようである。しかもそれが俗に言われる「民主党が」「自民党が」ではなく、組織内の問題だということだが、それが事実なら本当に悲しい限りである。

ただ、こういう巨大な組織ならではの弊害というのは実際よくある話で、いろいろと耳にする。L.starは元々一匹狼な気質もあって、大企業や官僚組織をあまり信用していない。個人個人はみんな有能で、しかもいい人だというのはよく知っている。しかしそれが組織になると、評価はいきなりどん底に落ちる。組織のしがらみが誰も望まぬ社内闘争を生む。素晴らしいアイデアは幾多もあって、優秀なスタッフがたくさんいるのに、社内政治の結果出てくるものは目も覆わぬばかりの無残な代物。

そういうのをいかに継続的に取り除くか、というのをむかしからつらつらと考えているのだが、今日はそのうちの一つのアイデアを記しておきたい。題して「事業逆仕分け」である。

民主党の事業仕分けや自民党の無駄撲滅プロジェクトでは、無駄なプロジェクトを探し出してそれをつぶす、と言う形で行政の健全化をさせようとしている。特に事業仕分けはそれを表の場所で行うことで議論を喚起した、と言うところが大きい。結果として幾多のデスマーチや惰性プロジェクトに幕を下ろせたと言うだけでも、一定の成果があったと思っている。しかし、削るだけでは本当の健全化は達成できない。新たに加える方も必要である。

官僚個人個人は優秀なのだから、何人かは素晴らしいアイデアも持っているはずだ。それを宇いかに組織のなかにうもれさせないようにするかが重要である。逆仕分けでは、そのアイデアは公衆の面前でいきなり新しいプロジェクトのプレゼンをし、外部のお墨付きをもって組織に立ち向かう、というシナリオを作るわけである。

  • 提案者は官僚。組織長等を通さずに「応募」できる。提案の乱発を避けるためにも、一定人数以上の連名が望ましいかもしれない。
  • 提案者は逆仕分け人の前で、そのプロジェクトについてプレゼンする。その際企業や外部ジャーナリストなどの協力があっても良いだろう。
  • 逆仕分け人は、それを聞いて質疑応答の後判定を下す。「必要なし」「検討の価値あり」「実施の価値あり」など

もちろん逆仕分け人の判定はあくまで参考に過ぎない。だから予算を組む「義務」はない。しかしそれが世に出て好評を博した後「やれない」と官僚組織はひっくり返せるだろうか。ここでは正義感のある官僚が自分の信じるものを売り込むような形を想定しているが、もちろん組織がバックアップするパターンもありである。そのときは財務官僚や政治家からの声を封じる役に立つ。

このような仕組みがあれば、組織内の問題(本当にあれば、だが)をバイパスして、「はやぶさ2」を「逆仕分け」し、よりスムーズに予算をつけてあげられる、ということはないだろうか。

この施策は単純だが、「組織の非効率をすり抜けて良い提案を実施に結びつけられる」というこの上ないメリットがある。いや提案できるかどうかなら、官僚個人の名人芸でできる。例えば「外圧」を巧妙に使うことで自分の意見をうまく通す、ということは日本ではよくあることだ。ただ一つ指摘しておきたいのは、逆仕分けが目指すのはそのシステム化である。提案実施のために必要なスキルを名人芸から、アイデア立案とプレゼン能力という一般的なスキルにおき換えるのが最大の目的である、ということだ。

ただあくまでこれはまだ素案レベルのものでしかなく、実施にあたって検討すべき問題を抱えている。とりあえず考えられることを以下に挙げておく。

  • そもそも提案者が現れるか。外部の力を使ってプロジェクトを実施させよう、などというのは組織の裏切りに等しい行為である。正義感にあふれていて不満を持っている官僚はそれでもやるかもしれないが、そのあとどのような扱いを受けるのか。
  • 組織が判定を無視する、あるいは受諾したふりをしても実際は何もしないという選択肢についてはどうするか。
  • 単なる官僚の予算取りのためのシステムに堕してしまわないか。出てくるプロジェクト自体が今までと代わり映えしないようなもので、結局仕分けと何が違うのか、ということになりはしないか。
  • 提案のために企業などとのやりとりが増えるだろうが、癒着などはどうなるか。企業の自社システム売り込みの道具にされないか。
  • 何を持って素晴らしい提案に報いるか。責任ある地位と金一封ぐらいしかなさそうだが。
  • 公開して世論を味方につけるという行為がポピュリズムじゃないのか。耳障りの良い施策ばかりがでて、本当の改革にはならないのではないか。

逆仕分けの第一弾はこのエントリで、逆仕分け人は読んでいる皆さんと言うことになるだろうか。さすがに「即実施すべき」とまではいかなくとも「検討の価値あり」と評価される程度には良くできていると思うのだが。是非あなたの逆仕分け結果をお聞かせいただきたい。

日本人はどの程度英語をしゃべれるべきか

By L.star, 2010 年 6 月 22 日

いろいろと個人的に忙しかったりやる気が出なかったりで、一部予定している記事も遅れがちなのだが、気になった記事があったので。

必要なのは「共通語としての英語

英語は普段会社で使っているのもあり、L.starにとっても結構深刻な問題である。実際時々あやしかったり、切り替えに手間取ったりしつつもそれなりに頑張っていて、たいていの欧州人からは「日本人にしてはずいぶんできる」と評価してもらっている。ただその言葉のうちどれだけがお世辞かは知りたくもないが、まあ改良の努力はしている。ちなみに、オランダにいるがうちの部署は英語圏(not米語圏)出身者が多く、彼らのネイティブな「生きた」英語にはさんざん苦労させられる。

で、英語についてのいろんな「どこまでできるべきか」という議論だが、そもそも人によってまちまちなはずである、という基本的なスタンスが抜けてないだろうか。だから人によってどこまで要求されるか、をちゃんとクラス分けして議論すべきではないだろうか。と思ったので、個人的な見識にもとづいてクラス分けしてみた。

レベル1:天気・買い物・道案内など日常的な基本会話ができる

TOEIC900点、とまではいかないだろうが、日本では「ちょっと英語のできる」と見なされるレベル。はっきり言うと、中学校から高校前半で習う英語をきっちり身につければ、ここまで簡単にいく。外国で真剣に生活しない人でもこの程度は身につけられるが、その際に他の言語圏の人たちが苦労して覚えないといけない文法やアルファベットの違いとかがあるが、日本人は実はそういうことに悩まされることはほとんどない。ただ覚えていることに沿ってきちんと訓練するだけでこのレベルには到達できる。

個人的には日本の都市在住者や、外国人がやってくるような観光地在住者の殆どが今後身につける必要があるレベルである、と考えている。そうでなくても、頻繁に海外旅行に行くような人には要求されるだろう。大半のオランダ人は実はこのレベルで、ちょっとレベルの低いところに行くともう通用しない。

レベル2:自分の仕事や専門分野の読み書き会話程度ならこなせる。

L.starが個人的に「インターナショナルビジネス語」(以下長いので国際語とする)と呼ぶ言語が基本的に習得できているレベル。国際企業で話されている英語というのは明らかにネイティブの英語とは違っていて、そこらのスペイン人やイタリア人のちょっと教育レベルの高い人なら話せるような英語のサブセットである。明確な定義など無いが、語彙も少ないし、文法もあまり複雑なものは出てこない。気の利いた表現も必要ない、ごくごく淡々としたものである。

「通じる英語」でいいんですよ

でいうところの「通じる英語」とほぼ共通していると思われるこの言語は、単なる意志コミュニケーションの手段であり、なんら情緒的なものは含まない。コンピューター業界なんかでは、会話はともかくドキュメントの読みとかでこのクラスが要求されるので、案外基礎としてできている人は多い。後はそれを実践して磨くのみだ。

「ビジネス英語」とも呼ばれているのだと思うが、ビジネス英語クラスで学ぶのはもうちょっと丁寧なレベルが高い英語のように思った。そういうのは付加価値であり、やはりレベルの高い英語ができる人は高い職掌につく率も多い。もちろんそれは、そういう勉強をきちんとしている証拠である。

聞いた話だが、欧州のエグゼクティブクラスになるような人は、徹底的な発音矯正をして、BBCで話されるようなきれいな英語(いわゆる標準の英語)を身につけるという。これなど、完全な国際語である。

レベル3:英語で閉じた世界で生活が出来る。

専門知識に限らず、ニュースサイトなどを読んで細かい部分まである程度理解でき、知性の高い人たちと難しい議論ができたりできる程度を指す。「TOEFLできないと話にならない」などと言う主張や、L.starが頑張って目指しているのもこれである。多くの長期海外在住者はこのレベルにあるだろうし、そうでないと相当大変だろう。ジョークに反応できる必要はあると思うが、気の利いたジョークを連発できるようなレベルである必要はない。

ここまで行けば、たとえ日本語訛りであろうとも国際社会ではまず通用する。相当のレベルでもない限り、あるいは英米人でない限り、どうせ相手も訛っているのだ。気にしてはいけない。

レベル4:ネイティブに遜色ない、あるいはそれ以上の英語を流暢に話す。

これ以上の説明は必要ないだろう、死ぬほど英語を勉強してきたから分かる、英語学習の限界の増田が目指して失敗したところである。通常このクラスに行き着く日本人は海外育ちのバイリンガルか、死ぬほど努力したかどちらかだろう。

実は、ぶっちゃけこんなのが必要とされるのは英語圏の国のローカルなところだけである。なぜならそのようなところでは高度な英語スキルと人間としてのレベルの高さが比例すると仮定でき、実際その仮定が信用されるからだ。だからこのレベルは、英国か米国で地元民に混じって活躍したいなら必須である。しかし日本で、あるいは多国籍企業では、ここまでのレベルはオーバーキルである。だから、このようなレベルの必要性についての論説は、例外なく英語圏に住んでいる人から出てくる。

逆に日本語で考えてみると良い。東京のような都市で生活するならたどたどしい日本語を使いつつ生活することも可能だろう。その上で都市生活者は比較的外国人になれているから「あいつは日本語の分からないから馬鹿だ」と仮定することは少ない。しかしこれが田舎に住んでみたらどうだろう。外国人慣れしていない田舎の人たちには、そういう人をうまく扱うのは難しかろう。

だから、ネイティブなみの英語というのは、実は国際社会に対応するためのレベルではない。むしろ英語社会ローカルに溶け込むために必要なレベルなのだ。

さて分けられるとしてこのくらいだろうか。もちろんどのレベルの話者も日本にとって重要であるが、とりわけ観光や文化交流のために必要なレベル1,あるいは基本的なビジネス関係の構築のために必要なレベル2の話者の数を増やすことが急務だろうと思われる。その上は大して必要としない。おおざっぱに言うと、レベル1:2:3:4=1000:100:10:1程度の割合で良いだろうとすら考える。

米国在住経験はないので聞きかじりになるのだが、欧州での英語経験が米国に比べてユニークなのは、実際に英国人によるネイティブ英語と、ドイツ人やフランス人などがしゃべる国際語が入り交じる職場を体験できる確率が高いというのがある。するとどうしても、この2つは別の言語だと気づかざるを得ないのだ。だから、増田の人の文章の以下の部分が全体としてのすれ違いの全てを表しているのではないだろうか。

…いや、何だろうね、どうも最近の「日本人英語ができるようにならんとグローバル化を生き残れない!」って風潮にイラっとくるものがあったので書いてみた。俺に言わせれば、「日本人英語ができないことを前提にして、それを補うシステム設計しないと生き残れない」ということになるね。

問題は以下のように、「英語」という単語をうまく補完すれば自明のはずなのである。

…いや、何だろうね、どうも最近の「日本人は国際語ができるようにならんとグローバル化を生き残れない!」って風潮にイラっとくるものがあったので書いてみた。俺に言わせれば、「日本人はネイティブ英語ができないことを前提にして、それを補うシステム設計しないと生き残れない」ということになるね。

そう、日本人はネイティブ英語ができないことを前提にして、国際語としての英語を使うことに集中しないと駄目だと言うことだ。それは他の人も示しているとおりである。お互いに全く矛盾しない。

英語には2種類ある。一つは英語圏の母語としてのネイティブ英語。もう一つはインターナショナルビジネス語としての英語である。まずはそこを区別するところからはじめてはいかがだろうか。

オランダの総選挙に学んでみる

By L.star, 2010 年 6 月 11 日

オランダでは2月に、連立与党第一党のキリスト教民主アピール(以下CDA)と第二党の労働党(以下PvdA)がアフガニスタンの派兵問題でもめたことが原因でバルケネンデ政権が崩壊した。それを受けて6/9に総選挙があり、第二院の選挙が行われた。どうでもいいが第一院は州議会の投票により任命されるので、このような解散の影響を受けない。

日本では主に政権交代があったこと、そして極右政党であるオランダ自由党(以下PVV)が台頭したことがニュースで取り上げられている。

オランダ総選挙、反イスラム政党が躍進

オランダ:自民と自由党が勢力拡大 イスラム移民に警戒感

オランダ総選挙の結果(1)、極右PVV党が躍進

まあL.starはまだ選挙権はないが、これから住み続けるならばちゃんと勉強しないといけないと思うので、この場を借りてまとめてみた。

まずは実際にどのような結果になったかを表でまとめたい。またオランダの政党は日本人にはなじみが薄いと思うので、Wikipediaよりできるだけ情報をひっぱってきてリンクも張っておく。Wikipediaなので不正確かもしれないことはご容赦をいただきたい。

党名 略称 党首名(年齢) 得票数(前回) 政治
スペクトル
政策面
自由民主国民党 VVD Mark Rutte (43) 31(22) 中道右派 新自由主義
労働党 PvdA Job Cohen (62) 30(33) 中道左派 社会民主主義
自由党 PVV ヘルト・ウィルダース (47) 24(9) 極右 国民保守主義
キリスト教民主アピール CDA ヤン・ペーター・バルケネンデ (54) ※ 21(41) 中道右派 キリスト教民主主義
社会党 SP Jan Marijnissen (58) 15(25) 左派 社会主義
グリーンレフト GL Femke Halsema (44) 10(7) 左派 グリーン・ポリティクス
民主66 D66 Alexander Pechtold (44) 10(3) 中道左派 社会自由主義
キリスト教連合 CU André Rouvoet (48) 5(6) 中道 キリスト教民主主義
動物の党 PvdD Marianne Thieme (37) 2(2) 中道 動物福祉
政治家改革派党 SGP Kees van der Staaij (41) 2(2) 右派 改革派教会

※バルネゲンデ元首相は選挙後辞任を発表し、CDAの新党首にはMaxime Verhagen(53)が選ばれたと言うことである。

次に簡単に個人視点からの総括を試みたいが、ポイントの一つはなんといっても極右で有名なPVVの大躍進である。ウィルダースの反イスラム姿勢は、はっきりいって個人的にはあきれかえるほど。彼が公開した映画「フィトナ」は実は見たのだが、問題点の指摘は正当だと考えるとしても、イスラムに対する憎悪で吐き気がするような代物である。いったいどのような人が新しくPVVの支持層になったのかは気になる。L.starはアムステルダム近郊在住だが、正直全然思い浮かばないし、@TOMOKOamsterdam氏も同様の疑問をつぶやいている

しかしPVV大躍進という目玉はあれど、それ以上にCDAが負けている。政治スペクトルの話だけであれば、実際には人数的に右派左派の移動は少ない。右派政党(VVD,PVV,CDA)の議員合計は76で、前回の72から比べれば、今回ようやく定数150の過半数を取って、若干左よりから若干右よりに移行した、ぐらいである。実際には与党第一党だったCDAが削られた分が、同じ右派のVVDやPVVに吸収された、という感じだろうか。左派内についてもSPで減った分がGLやD66に吸収された感じで増えていない。

トリックはというと、やはりよく言われる「左派は都市層に強く、右派は地方に強い」というこの分断で説明できるようである。Labour was the biggest party in the four main citiesによると、オランダ4大都市(アムステルダム、ロッテルダム、ハーグ、ユトレヒト)では全部PvdAが一番強く(ちなみにコーエン党首は直前までアムステルダム市長だった)、ロッテルダムではPVVが、ほかではVVDが2番手だったということで、都市部では引き続き左派が堅調だったのだろう。

一方特に地方では従来キリスト教徒基盤の強かったCDAが大苦戦し、その分が別の右派勢力に流れた。特にリンブルグ州ではCDA票の減少分がPVVに流れ、得票率25%取ったと言うから地方の不満を吸収した結果だろうと考えられる。(@portfolio_news氏のツイート

考えるとアムステルダムはもともとリベラルで左翼的であり、右翼の台頭を感じられない都市ということなのかもしれない。実際2004年にイスラム過激派による暗殺事件があったことを考えるとこれは奇跡的なぐらいで、当時のコーエン市長=現PvdA党首の能力には驚くばかりである。そしてこれが住んでいるのがロッテルダムなら、又違う感想になったのかもしれない。

さてその後であるが、

オランダ総選挙の結果(2)、連立政権の行方は?

でも解説されているが、VVDの党首ルッテ氏中心に連立内閣が組閣される。が、なにしろどの党も定数の25%(37.5)すら取っていないため、最低でも3党の連立になることになり、交渉はこれからである。

PvdAがPVVとの連立を拒否している。まあ移民問題のあまりの違いを考えると当然のことだろう。そのため、連立の可能性としては6通りになる。おおざっぱにその組み合わせを分類すると

  • PvdAとの左右リベラル政権+D66,GL,SPなど
  • PvdA、CDAの元与党たちと
  • CDAとの中道右派政権+D66,GL,SPなど
  • CDA+PVVで右派

の4つである。個人的には一番上を期待したいところだが。組閣のための作業は

VVD wint na nek-aan-nekrace met PvdA

によると(L.starの拙いオランダ語読解力が正しければ)7/1には完了させる予定で望むようである

ところで、このようにみてみると、本当に日本とは異なった方法で政治をしているのだな、ということを感じざるを得ない。まずわざわざ表に党首の年齢を記載したが、見て分かるとおりみな若い。コーエンこそ60代だが、平均はおそらく40代、そのうえ30代の党首まで居る。ひるがえって日本の党首はどう見ても最低50代。若いということはもちろん善し悪しだが。

もう一つはなにしろ政党の規模と数、その多彩さである。これには歴史的な経緯もあるが、なにより政治システム自体の差が大きいことがあげられる。しかし、今の日本の政治に「選挙してもなにも変わらない」と閉塞感を抱く人にはオランダの政党のほうが魅力的に映りはしないだろうか。なにしろ自分の意志をずっと強く示すことができる。もっとも、連立過程で第一党が過激な政策を主張していても、実際は薄められるため、それほど強く意思表示できるわけでもない。

無論、このような政治システム変更は大規模で、場合によっては憲法問題にもなり得る。そもそも政党を切り刻んで小さくする命令を出すことなど誰にもできない。日本にそのまま適用するのは全く不可能と言っていいだろう。もしも日本がオランダのような穏健な多党制になるなら、それは自民党と民主党の両方が崩壊して、大量に新党ができたあとに自然発生的にということになるだろうか。それはそれで避けたいシナリオである。

まあとりあえず、「これを真似れば日本は良くなる!」のような凄いものをオランダの選挙に見いだすことはいまのところできなかった。おそらくないだろう。しかし、民主主義政党政治、と言う点で分かったつもりになっても、実際各国のシステムはずいぶん異なっているなあ、と思う次第である。

「労道」の正体、企業年功カースト制度(前) ― サラリーマンの心の支えになった「アジャイル輪廻転生」

By L.star, 2010 年 6 月 2 日

久々にまたオピニオン系というか日本のありようについての内容に戻るけど、今日のお題はここから。

プログラミングが出来ないSE(システムエンジニア)がソフトウェア開発を指揮している?

いやべつによくあることだけど、でかい現場に行くと泣けてくるのも又事実。何故かというとソフトウェア業界はまだ未成熟で、設計や製造、見積もり技術が成熟していないからと言うのが一番大きい。その次に進歩が早すぎて、成熟する以前に先に行ってしまうこと。それらが相まって、この状況が悲劇になる。

L.starは、個人的にはプログラムができないSEが駄目とは思わない。もちろん自称プログラムが分かっているSEとかはたちが悪いが、SEに要求されるのはやはり違う能力であり、プログラマから叩き上げて良いものになるとは必ずしもいえない。というか「彼は技術は素晴らしいが管理は全然」というカウボーイプログラマのほうをむしろたくさん見てきた。SEとして駄目なやつは駄目、それだけのことだ。

しかしそれ以前に何かおかしい、と思わないだろうか。しきりに「ゼネコン化」や「多重下請け構造」という言葉が出てくる。

というのも、我々が信じていた年功序列終身雇用モデルというのは、平社員から主任、管理職、課長部長を経て最後は社長になることではなかったか。確かにコンピューター業界にはそれがない。孫請けソフトハウスは永遠にコーディングであり、天下の大手SIer様は永遠に設計や工程管理である。これでは就職した時点で職能が決まる、企業カースト制度である。

というわけでネイションシリーズの第6回である。最初は軽く「終身雇用って叩き上げ重視じゃなく、系列関係を固定するカースト制度だよね」という話で終わらせようとしたら、どんどん考察が深くなって、最後にはとんでもないところまで言ってしまった。

振り返ると、戦後日本社会は元々そうであった。系列と呼ばれる構造化した企業体があり、士農工商下請けとまで揶揄された。(高いカーストの)大企業に入るために、必死に受験勉強して良い大学に入る。

年功序列における「出世」をこの枠に当てはめようとすると、「年功カースト」というものも存在したに違いない。つまるところはカースト内カーストだが、何らかの評価制度により、同年代でより高い序列を占めることが重要なことになる。出世レースに乗り続けることで、どんどん企業カーストの中の枠組みの中の、さらに高いカーストを占めることができる。高い企業カーストのさらに高い地位、例えば銀行の頭取や新聞社の社長などは、それこそ神に等しい存在になる。

家族のカーストは家長のカーストで決まるため、出世をないがしろにして家庭を顧みる必要などない。全てを犠牲にしてでもやる価値のあるものだ。

そして企業カースト制度を成り立たせるのに必要なのが、新卒重視・年功序列・終身雇用である。新卒重視は生まれのカーストを決めることである。学歴と、受験勉強を勝ち抜いたと言うことが、その基礎となる。次に年功序列は序列カーストを明確にするために必須である。厳格に決められたレールを、決められたタイミングで上っていくことを強調することが必要だ。例えば定年間際の課長と、同期一番乗りの課長は、一見同じに見えて全く違うカーストでなくてはならない。そして終身雇用は、カーストの固定化を明示するためにも必須である。芸能人やスポーツ選手、転職をくりかえすような輩は不可触賤民である。

元々のインドのカースト制は生まれてから死ぬまでだが、この企業カースト制度は、人生の節目節目において、カーストの選択が目に見えて行われるところが優れている。このイテレーションを通じて現世利益を得られることで、誰もが信じることができるだろう。敢えてソフトウェア業界の用語を当てはめるなら、「アジャイル輪廻」である。入学、入社、出世・・・すべてカーストというかインド的宗教観における「輪廻転生」なのだ。

改めて考えてみると、

日本のナショナリズム:企業というネイションの喪失と今起こっている勢力争いという仮説

にて、日本の企業ネイションは国民国家をそのまま引き継いだもの、と言う仮説をしたが、訂正する。企業ネイションは存在したが、それは戦前のような半端なものじゃない。こいつはカーストによる分業制度を確立し、あらゆるリソースを企業のために喜んで継続的につぎ込むような巨大なシステムだった。

しかも、かつて日本で、特に江戸時代に定着していた、士農工商身分制度や儒教は、これを後押しするような形で働いた。つまり、日本の古いシステムとも合致したわけだから、定着も用意だろう。

この企業カースト制度というのは恐ろしいほど効率が高い。あらゆる生産活動を企業の利潤に結びつける強烈なインセンティブがある。こんなのが相手だったら、たとえ覇権国家でも客観的に見て勝てる気がしない。

そして、これを崩壊させたのは不況ではなく好況だろう。教育にコストをかけられるようになり、能力より学歴を重視するような教育がはやることによってカーストの意義が薄れ、大企業が求人を増やすことでバランスを崩した。生活が豊かになることで女性の社会進出が起こり、男性に育児や家事の分担を求められるとともに、社内カースト競争につぎ込めるリソースは減った。

これらは全て国民の生活が向上した必然の結果でありながら、その母体である企業カースト制度を弱める方向に強く働くから、日本は崩壊した。思えばバブルは単なる経済破綻だけではない。企業カースト制度の崩壊のクライマックスだ。新卒採用システムが狂ったことで、誰もが努力して偉くなれる企業序列カーストは成り立たなくなったのは言うまでもない。

そして今我々は、その残滓として残ったカースト制度に苦しんでいる。苦しんでも苦しんでも、非効率になってしまった制度は救済をもたらさない。

再び以前のエントリに戻って

意義のある「労道」がしたいー21世紀の日本で宗教改革の波が

は、「労道」の宗教性を指摘したまでは良かったが、その宗教性の本質を指摘できてなかった部分が片手落ちであろう。しかし、この企業序列カースト制度を踏まえれば、もう少し踏み込んだ分析ができるだろうと思う。ポイントはカーストを再興するか、崩壊させるかというところだ。

さて書いている間に長くなってしまったので、ひとまず前編としてここで筆を置きたい。後編では企業系列カースト制度がもたらした人生バランスを考察しつつ、解雇規制や既卒差別禁止による「カースト制度崩壊」と、そして逆にカーストの枠組みを温存しつつ新しいカーストを根付かせるということについて検討したい。

VoltDBは何故早いのかは問題ではない。何をするためのシステムなのかが問題だ

By L.star, 2010 年 5 月 31 日

ちょっと小旅行に出ている間にアクセスが伸びていて、おかげさまで前回のVoltDBのエントリが大人気だったようだ。まだまだ書き足りない部分がいっぱいあったので、補足する意味も込めて書き足してみたい。それは、H-Storeが従来型RDBMSとどれほど異なったシステムか、ということだ。インターフェースの話や大まかな話はしたが、前提となる部分の話はずいぶん抜けてしまっていた。

NoSQLを超えるSQLデータベース「VoltDB」。Cassnadraとベンチマーク対決!

で、実際にCassandraと比べて検討している

Key-Value Benchmarking

という記事が紹介されていて興味深い。で、なおかつ勝っていると言うから痛快だ。まあ個人的にはこの勝負は高々3ノードしか使っていない時点でスケーラビリティに勝るKVSにずいぶん不利な内容だな、と言わざるを得ない。せいぜい12ノードぐらいでしかテストされていないというVoltDBだから、30ノードならずっと違う結果が出るだろう。しかし、それでも勝ちは勝ちである。そもそも、ある程度のSQLを解するRDBMSなら、あげられた条件ではCassandraに肉薄すらできない。

何故ここまで勝てるのか?と言う話だが、逆に何故今までのDBは遅いのか、と言う話はすでに以下の論文にまとめられている。

http://cs-www.cs.yale.edu/homes/dna/papers/vldb07hstore.pdf

ここでいにしえのSystem Rの以下のような部分に対して批判がされている。

  • ディスク上に配置されることに最適化されたデータ構造
  • (ディスクI/Oの)レイテンシの遅さを補うためのマルチスレッディング
  • 同時実効性制御にロックを使うこと
  • トランザクションログによるリカバリ

ではこれに対するVoltDBというかH-Storeの回答は何だろう?こうだ

  • 最初からオンメモリを前提としたデータ構造
  • ロックフリー化。(ストレージ部分のシングルスレッド実行)
  • ロックを一切用いない追記とシングルスレッドによる同時実行制御
  • UNDOログは追記で不要。REDOは関してはレプリケーションで代用(これは論文に書かれていないが、FAQからそう読める)

このうちいくつか、MVCCやロックフリー化(に近い削減)は、RDBMSの世界ですら珍しくないものだ。逆に無いものから考えると、引き算で答えが出る。

となると答えは簡単だ。オンメモリベースのDBでログを持たないから。

実験したことのある人は多いと思うが、普通のRDBMS,PostgreSQLやMySQLのデータをRAMDISK上においても、極端な性能向上は見られない。少なくとも昔はそうだった。それはロックが多すぎてボトルネックになってしまうからだ。

メモリDBというのは単なるRAMディスクにデータを全部おいたRDBMSではない。いわゆるRDBMSのアルゴリズムは全てディスクベースで構成されている。それはつまり、あらゆるデータはディスクから読み書きされることを前提としていて、メモリはキャッシュとしてしか利用しないと言うことだ。

キャッシュにしか使っていないから、データ構造は全てディスク上に配置されることに最適化されている。B-Treeなどその最たるものだ。オンメモリで良いなら赤黒木なりなんなりもっと楽なアルゴリズムがあるし、メモリポインタをそのまま使うことで一気に単純化可能で、いろんなボトルネックが解消できる。ロックも簡単である。

そして、RethinkDBのエントリでも書いたが、ログをまじめに書かなくていい前提ならディスクI/Oは最小である。となるとWALによるデータ保証をしているCassandraとでは圧倒的な差が出て当然である。

ちなみに、PostgreSQLのコアメンバでEnterpriseDBにいるDave Pageが

Comparing VoltDB to Postgres

でこのVoltDBについて、要を得た比較しているので参考になるだろう。Daveはいくつかの点で、VoltDBがPostgreSQLの代替として使えない、ということを指摘している。コメントで「それはアーキテクチャの問題ではなく機能不足」とされていた部分を除くと

  • 限られた同時実行制御モデル
  • 従来インターフェースとの互換性
  • オンメモリDBであることによって、メモリ不足が深刻な問題になること。

と言ったことがあげられる。ただし、実はVoltDBにおいてはそんなことは設計の時点で折り込み済みである。先の論文で、なんのためにこんなシステムを実装しようとしたかの結論部分を引用しよう。

1. The predicted demise of “one size fits all”
2. The inappropriateness of current relational implementations for any segment of the market
3. The necessity of rethinking both data models and query languages for the specialized engines, which we expect to be dominant in the various vertical markets

そう、もう「1つのエンジンがあらゆるところに使い回される時代は終わった」と言っているのである。RDBMSはその点テクノロジー的な優等生を目指している。いやむしろRDBMSが標準に近いのではなく、標準がRDBMSを元に作られたとまで言ったほうがいいかもしれない。

車にたとえると、VoltDBはTPC-Cのようなトランザクション処理に特化したレースカーである。CassandraのようなKVSも、同様に又違う種類のトランザクションに特化したレースカーである。その点素のRDBMSはどこまで行ってもセダンだ。

だからVoltDBの数字に踊らされる前に、自分たちの使っているトランザクション特性をしかと考えてみてほしい。あなたのシステムが、メモリに収まらないほどのデータを扱わず、OLAP系の複雑なクエリなど知ったことではなく、でもOLTP性能がほしくて、RDBMS並に完璧なデータ完全性が必要ないならこいつは素晴らしいシステムだ。しかしどれかに当てはまらないならゴミだ。それだけのことである。

VoltDB登場 – RDBMSのようでRDBMSではない新システム

By L.star, 2010 年 5 月 27 日

最近また超並列DBのデザインを進めたりRethinkDBの話を書いてみたりとまたRDBMSづいているが、そんなことをしているうちに世の中では実際に並列DBが登場してしまった。

INGRES,POSTGRES,Illustra(と、誰も知らないMariposa)と、RDBMSの世界で革新的な仕事をしているMichael Stonebraker博士。最近何やっているのかと思ったらいつの間にやらH-Storeなる新型のストレージに携わっていて、それがいつの間にかSQL機能をもってVoltDBというプロダクトとしてやってきた。かれこれ40年近く業界の第一線にいることになる。

「NoSQL」を上回る性能を目指す次世代型高速SQLデータベース「VoltDB」登場

などという記事を見てびっくりした次第だ。NoSQL並の性能とRDBMS並のACID準拠、そしてSQL構文が使えるという、これまた夢のようなシステムである。

しかし、これがいわゆる狭義のRDBMSというか、我々が考えるOracleやMySQLのようなシステムを想像してとっかかると、全然違うものである。全くとんでもない代物である。

まず持ってH-Store自体、従来のRDBMSの持つ欠点というか、時代に即した設計に改めるためにかなりドラスティックな変革をしたシステムである。当然現物を見たことはなかったが、ここに来てVoltDBが出てきたことで拝めることになった。

それについては論文を見るのが早い。

HStore:A HighPerformance, Distributed Main Memory Transaction Processing System

こいつはOLTPに特化したシステムで、最初の記事で圧倒的に早いと言われていたのはおそらく論文にも出てくるTPC-Cである。主記憶を主に使うオンメモリDBに近いタイプだろうと推測する。書き込みの高速化はsharding、そしてレプリケーションを使うのは前回のエントリでも言ったとおり常套手段である。

ユニークなのはパーティショニングされているテーブルと、パーティショニングされていず、全部のサーバにレプリケートされている読み込み専用のテーブルの2種類があることだ。後者はマスタ等に利用する考えだろう。

そして独特なのが利用モデルで、VoltDBではテーブル、その設定、そしてJavaとSQLで書かれたストアドプロシージャを「ビルド」して「アプリケーション」を作る。つまり少なくとも現状では、データベースは静的なシステムであり、オンザフライでの頻繁な変更をあまり考慮していない。少なくともALTER TABLEはない。

また、トランザクションモデルは驚くほど異なっている。まずもって全てのトランザクションはストアドプロシージャとして登録されなければならず、インタラクティブなものは事実上ありえない点が新しい。そのため、JDBCやODBCのような汎用インターフェースをサポートしない(できない)VoltDBのFAQにもその旨が書かれている。なお、アドホックにSQLが書けないわけではない。しかし非推奨だ。

一応ソースコードも軽く眺めてみた。軽くなので正確なことは分からないが、エンジン部分はC++でかかれており、ここにストレージ用のコードやExecutorのコードがある。またフロントエンドはJavaで書かれていて、こっちにPlannerがあるのが興味深い。またMerge Joinなどの特殊なJOIN機構が無いのも興味深いが、これはOLTP用としては重要ではない判断だろうか。Java側には設定等のためかHSQLDBも入っている。実に興味深い。

これは実際、確かにSQLを受け付けるとはいえ、現実にはかなり異なったシステムだと言っていいだろう。スレッドモデルの考え方など、他にもずいぶん独特な部分がたくさんあるが、もう少しちゃんと読み込んでからそこは書いていきたい。しかしいえるのは、今までのやり方は通用しないと言うことだ。それは悪いことに見えるかもしれないが、代償として得られる性能は圧倒的であることは強調しておきたい。SQL実装の扱いやすいが性能に差し障る部分が削られていることが、性能を印象的なものにしている。

BigTableあたりから始まって、データストアの性能改善の動きが激しく、まだしばらくは続きそうだ。一段落したときにどんなシステムが勝ち残るか、いったいどれだけのことができるようになっているか、そしてユーザはどのようにその恩恵を受けられるのか?いろいろ興味深い種は尽きない。その中でL.starはどういう役割を果たすべきか?ちゃんと考えておかないとなぁ。

RDBMSにおける5つの並列可能性 – L.star的デザイン(2)

By L.star, 2010 年 5 月 25 日

前回、と言ってもずいぶん前になるが

超並列RDBMSは成立するか – L.star的デザイン(1)

にてある程度の考察をしているRDBMSのデザイン。kumoFSどうだろうとか寄り道しつつ、自分なりの次のステージまで煮詰めることができたので、それについてメモとして書き留めたい。

まず目標として掲げるのは、

  • 標準的なストレージしか持たないサーバ群を使う。
  • 単純CRUDクエリのスケールアウト。読み書き両方
  • JOIN構文のサポート。特に1TB程度の複数テーブルをINNER JOINして集計できる
  • 1つのクエリ内部を複数サーバに分割させることによる性能向上。スケールアウトというわけではないが。

というところである。かなり無茶な要求と思うが、ここまでサポートできるとデザイン上で納得できれば悪くなかろう。現実に実装する場合には、随所で発生するボトルネックとの戦いになるだろうし。前回は「ストレージノード」と「クエリ実行ノード」の2種類に分けたが、今回はここをより深く切り分けて、実際どのように並列化可能か、というのを取り上げたい。

読み込みI/Oをレプリケーションで、書き込みはパーティショニングで分散するRAIO1+0構成のストレージノード

ストレージノードは、RDBMSの従来のボトルネックであったディスクI/Oを司るところだから大切にしたいところである。しかし、ここをどうやって構成するか、というのは最近もはや定番構成ができつつある。まず書き込みI/Oを分割するためにShardingする。後にこれをレプリケーションすることによって可用性と読み込みの分散の両方をはかるやりかたである。以下に構成例を図で示す。

image

これは詰まるところディスクで言うところのRAID1+0構成になる。逆の0+1(先に複製、あとでsharding)という構成とどっちがありかというのは難しいが、分割したものは全てそろっていないといけないこと、複製は全てそろっている必要はないことから、先に分割するのが順当に思われる。

実行プランの垂直・水平分割

次に実際にここからデータを読み込んだ後、結合とかソートとか集約演算をする、クエリ実行ノードの話に移る。RDBMSにおけるクエリ実行プランには、実は2種類の分割が可能である。一つは各クエリオペレータは、基本的に上流から来たデータを下流に流す構造なので、これは垂直分割可能である。例えばデータを読むノードと、それを加工するノードは別にすることが可能である。つまりクエリ実行ノードは、複数のクエリオペレータノードに分割可能である。

ただし理論上は分割可能だが、別ノードやプロセスに置くとプロセス間通信が発生する。これをできるだけ最小化する

また、ソートや集約については水平分割も可能である。例えばソートの場合マージソートにより分割可能である。マージソートは外部記憶を使うこともできるので分散の必要はないが、ネットワーク越しにすることでこの外部記憶用ディスクへのI/Oも負荷分散可能である。JOINに関しては、巨大なテーブル同士でまともな性能が出るのはマージジョイン以外あり得ず、そのため必要なのはソートなので、ここがあれば大丈夫である。

以下に具体的に2テーブルのJOINをするときのフロー例を示す。この例では各テーブルが5つにshardingされているとし、おのおの前処理として集約とソートしつつ、最後にJOINして合計21ノードで処理をしている。ここでは「ノード」としたが、物理的に別ノードである必要はない。

image

というわけで、ここでは4種類の並列可能性を抽出してみた。これにごくごく当たり前のものを加えると

  1. Shardingによる読み書きI/Oの分散
  2. レプリケーションによる読みI/Oの分散および可用性向上
  3. 実行プランの垂直分割
  4. クエリオペレータの並列実行
  5. 接続ごとの並列実行

これら全てを組み合わせたシステムが実は案外多くないことに注意する必要があるだろう。クエリベースのレプリケーションは上記のうち2と5だけしか使わない。Postgres-XCは1も備えるが、現状3を備えないためにノードをまたがったテーブルのJOINができない。世の多くのKVSは1,2,5についてはほぼ完璧である。ただ、3,4については無いに等しいか、SQLより簡素化したもの(例えばMapReduce)しか備えない。3,4に強いのは実はOLAP系のツールで、RDBMSより圧倒的に強い。

これらを加味すると、1-5を全て備えるために必要なのは、KVSのような1,2に強いストレージモデルにしつつ、なおかつその上にOLAP系ツールに近いSQLインターフェースを配置する必要がある。ただ、推測でしかないがSalesforceの内部、Azure向けSQL Server、そしてOracle exadataはこれに近いデザインになっているだろうというか、他に妥当なデザインが思い浮かばない。正直これ以上デザインを推し進めたとき、どれだけ彼らの特許に引っかかるかと思うと憂鬱になる。

まあここでのデザインはあくまで自分の訓練向けと思っているし、かなりのボリュームなのでたぶん全部を実装するのは一人では手に余る。まあそれでも時間を見つけてインターフェース起こしたりより詳細な実装に踏み込んだり、という作業はやっている。例えばクエリのフローの流れや、具体的なストレージノードの初期デザインも頭の中にはできているので、とにかくそういうのをメモ代わりにここに残しながら少しづつ完成に近づけていきたい。でないと、とても現状の最先端には追いつけない。

SSD時代になってRDBMSの逆襲はあるか ー ReThinkDBの試みを読み解く

By L.star, 2010 年 5 月 11 日

今日も突然TwitterでRDBMSとNoSQL周りの会話に若干巻き込まれたわけだけど、実際にどっちが勝つのかの帰結を予測するのは非常に難しい。

NoSQLのスケーラビリティと可用性は大変素晴らしいし、オブジェクト指向言語との相性もO/Rマッピングに比べれば抜群によい。しかし一方で、SQLと言う言語とその実装には癖があるとはいえ、RDBMSで実現できる柔軟性は捨てがたいし、ACIDが保証されているし、既存資産が流用できることも大きい。ポイントはそのACIDがどれだけ重要であるかということと、性能面だろうと思っている。つまりNoSQLでないとコストメリットが出ないほど大規模であればNoSQL優勢、そうでない部分はRDBMSで、ということだ。あまりに普通で失望した、と言われそうだが。

まあそれはおいておいて、最近RDBMSの性能を後押しするだろうと考えられている存在が、マルチコアCPUとSSDである。元々並列処理が多くCPU数の援護を受けやすいと言うメリットがある上、ランダム読み込み=インデックス読みに強く、しかも書き込みパフォーマンスが良好なSSDは、組み合わせるとRDBMSの性能を爆発的に上げる可能性を秘めている。例えば今の数十万円で買えるハードウェア上でRDBMSのTPS性能が10倍になれば、わざわざ一般システムをNoSQL化する必要など無いわけだ。

まあそんな話をつらつらと考えているとタイムリーにもPublickeyで

SSD専用に設計された「ReThinkDB」、ロックもログも使わない新しいリレーショナルデータベースのアーキテクチャ

などという記事が出ている。RethinkDBの話はちらほらと聞こえてきていたけど、ようやくまとまった情報が出てきた感じである。

紹介されているReThinkDBのアーキテクチャはなかなか独創的なようなものに見えるかもしれないが、実は追記型ヒープストレージによってロックを削減する手法は、「トランザクション処理」(通称Gray本)にも載っているぐらい古いもので、今となってはそれほど目新しいものではない。ましてやTime Travel機能など、POSTGRESの時代にもう存在していたものである。むしろ当時理想論過ぎて現実にはどうにもならなかった完全追記を放棄した現代のRDBMS群から見れば、先祖返りと言っても良いぐらいである。

新しいのは完全追記型インデックスを持つ(これは目新しい)ことと、ReThinkDBは「ログがない」と主張しているところだ。しかし実際には、確かにログファイルは個別では存在しないが、ログにあたるものがないわけではなく、redo/undo両方のログにあたるものはヒープが全て統合されていることである。PostgreSQLではundoとヒープが統合されていて、Oracleではロールバックセグメントがundoログに当たるが、いずれもredoログは搭載している。このへんのログの話は「データベースにおけるデータ保護:ログの話」も参照していただけるとわかりやすいだろう。

結局、ロックフリーなキューを使って書き込みスレッドを直列化することによって、完全追記型を可能にしている、ということだろう。個人的にはコミット時ログ強制書き出しをどうやっているかが気になるが、それはあくまでウェイトであってロックじゃないですよ、と言う理解をすればいいのだろうか。

ただ、それが何故SSDに最適化?というと一見ぴんとこないかもしれない。実はその鍵は以下の部分にある。

ReThinkDBでは、データベース自身がログになっているため、ログのための別のディスクを確保する必要もない。ログを書く必要がないため書き込みが50%減少する。

これは実はSSDだけで考えるなら正しいが、本当はWrite Ahead Loggingで要求されている「ログを書き込む50%の同期書き込みとヒープを書き込む50%の非同期書き込み」のうち後者の非同期書き込みを削減しているわけである。

実は、例えば(ランダム同期書き込みしかしなかった)PostgreSQL7.0に比べてログを書く分50%もI/O量が増えたはずの7.1のほうが早かったように、一昔前の常識ではわざわざ無駄に50%の書き込みを増やす以前の状態のほうが早い。それはHDDの場合遅い順に同期ランダム書き込み>同期シーケンシャル>>>非同期と言う特性があって、極論非同期I/Oなど無視してかまわないぐらい負荷が掛かるからだ。しかし、同期書き込みが高速なSSDではそうではなく、この削減はつまり50%の削減として直接響いてくる。ここがこのファイルシステムが「SSD専用」と銘打ったところである。たぶんHDDでは残念な性能しか出ないだろう。

個人的には、追記型はガベージコレクション(PostgreSQL用語で言うところのvacuum)が難しいのだが、そこをどうやっているかも興味がある。Time Travelができるというぐらいなのだから、全くやっていないのだろうか。キャッシュの部分も興味が無くはないが、実際にはロックフリーなバッファキャッシュアルゴリズムはそれなりに出てきているので、それほどのインパクトは感じられない。

30年前、データベースのボトルネックは間違いなくディスクI/Oだった。しかしハードウェア要件が変わり利用法も変わった。そして出てきたシステムがこのような先祖返りだったというのが実に興味深い。というか「HDDに最適化するための今までの手法」を全部取っ払い、マルチコア向けにロックフリーアルゴリズムを駆使した最新の技術で武装した、というのが正しいだろうか。コアが増え、SSDの価格性能比がどんどん落ちている間は、NoSQLが下層まで降りてくるのはまだまだ厳しそう、といえるかもしれない。

ナショナリズムの暗黒面に堕ちるな ― 反○○の甘い罠

By L.star, 2010 年 5 月 8 日

書き始めたら自分だけが止まらない「ネイション」シリーズの第5回。思いついた中でL.starが肯定的に考える「ネイション」は全部紹介し終わったと思うので、最後にこれはだめだ、採用したくないなと思っていた重要なものを紹介したい。それは「反○○」である。 これをナショナリズムと呼んで良いかは疑問があるが、実際ナショナリズムのように働くからそのように扱いたい。

このメカニズムはごくシンプルで「○○憎し」がそのまま共有されて共同体の原則になるものである。○○は好きなものを入れていただきたい。代表的なのは「反米」「反日」「反中」などの国家民族に対するもの、「反共」「反資本主義」のようなイデオロギー、「反キリスト」「反イスラム」の宗教、「反民主」「反マスコミ」のような具体的権力に対するもの、いろいろである。

しばしば「共同体は敵がいなければ団結できない」というような言い方がされるが、それがこの「反○○」である。反証は孤立した文化が安定して存在し続けられた例がいくつも簡単に見つかる。鎖国時代の江戸時代にいったいどんな敵がいたのだろうか。むろん理論上は存在しているが、そんなのを民衆が認識できていたとはおよそ考えづらい。このようなケースでは民族、経済、文化などがその共同体全体を支えるだけの十分な力を持っていたためである。ただあまりにも歩みが遅く、一見その進歩や効力が分かりづらいものである。

しかし憎悪は違う。憎悪は明確な感情のため、共有がきわめて簡単である。簡単に燃え上がって、遙かに巨大な勢力に成長する。他のネイションとも補完的に働き、その勢いを増幅する。 欠点はもっと巨大である。中心にあるものが憎悪であるが故に簡単に暴走するのである。近代以降でナショナリズムが最初に現れたのはフランスの市民革命であることはすでに一致を見ているが、そのフランス革命からして、憎悪故の暴走から免れることはできなかった。

例えば「反社畜」と「労道再興」という2つの勢力は、どっちも現在のあまりよろしくない大企業の労働形態の問題について共闘することが可能だ。しかし企業との戦いに勝利したあとはどうなるだろう。「やる気のある人が本当に自発的に死ぬほど働く」という命題で対決することになるだろう。さらに「反権力」も上記2つと共闘が可能であるが、これはもっとやっかいで、勝利した「反社畜」と「労道再興」は、勝利した時点で権力に変わる。一見強力な「反○○連合」は、このようにあっさり瓦解する。

日本でこの種の図式が一番よく見られるのはマスコミで、彼らは(常にではないが)反権力的な行動を取る。だから野党にしろ若手にしろ、権力のまだ無い人なり団体を持ち上げ、上昇するのを助ける。しかしその人なり団体が権力者になるともうそれは反対する相手、権力の対象である。だからあの特有の「持ち上げて落とす」という、一見すると徹底しない奇妙な行動は、反権力という明確な、一貫した行動軸がある。 こんな感じなので、暴走例はあまりにも多いし、それがどれだけの悲劇をもたらしたか説明は必要ないだろう。

そもそも、敵がいなくなるとどうなるか?巨大な敵を倒した連合勢力がその後空中分解した例は反ナポレオンで一致して戦ったヨーロッパにしろ、反ペルシアで戦ったギリシャ連合軍にしろ、歴史の常連である。あるいはその力を維持するために別の敵を探し出す。

長期にわたって成功した文明というのは、どれも成功するだけの要素を多数併せ持っていて、且つ欠点は非常に少なかったはずなのである。それは芸術的とでも言うべき代物であり、偶然だけで作り出せるほど簡単なものではない。簡単に暴走をするような旗印では、そのような微妙な着地点を見いだすための精密さを致命的に欠くのだ。だから長続きもまず期待できない。

我々は、「ナショナリズム」の力を利用するときに、同時にこのような暗黒面とも向き合わないとならないと言うことを心すべきである。L.starがその避け方を教えられるほど良くできた人間だとは全く思わないが、個人的には常に何も「否定」せずに、何かを肯定するだけで正しい道筋を一つ以上示すことができるか、と言うことに指針をおいている。前4回のどれも、その点は注意深く考えたつもりである。

否定と言う行為は駄目だ、という否定行為を行う逆説的なエントリに見えるが、言いたいのは実は「何かを肯定しよう」ということである。他人を否定するのは簡単だし、理由なんていくらでも見つかる。でもそれは罠だ。何かをなしたいと思うなら、それを廃して自分の道を見つけなければならない。失敗しても良い、気付いた時点で戻ればいいのだ。

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